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  8月31日(水)    
台風接近で午後から天気が崩れるらしいのですが、午前中は暑い真夏の天気。本当は朝早く畑に行って仕事をすればいいのでしょうが、夜遅くまでパソコンに向かったりしているので、どうしても朝は眠たい。
まだ左手首の自由がきかず、ちょっと曲げても痛みが走るのですが、イチゴの苗床を早く作らなければならないので、やむなく午前中畑に行って耕耘機を動かしました。
植え付けは9月中旬。ここ2年ほどは失敗の連続なので、来年こそは沢山収穫できるように気合いを入れて作業しました。
午後1時頃帰ってシャワーを浴びて一休み。夕方は高校生の授業があるので、これからちょっと寝てお出かけです。
妻は朝からシニア大学。私に何とか追いつくのだといいながら、一生懸命勉強をしているよう。私といえば、身体が重く出不精なので、家で本でも読んでいた方が気楽。妻の方がよほど勉強熱心です。



  8月30日(火)    
午前中はバラ園で整備作業。11人が集まり、草取りや花殻つみ、手入れなどに汗を流しました。私も責任者である以上腕や腰が痛いといっておられず、腕の「ギブス」も外して草取りをしました。みんなの努力のおかげで、園内はすっきり。
入り口からの通路の両側に植えてあるコスモスが、なかなかの風情。とくに黄色コスモスが縁を飾り、その間を蝶が飛び交って小さいながらも完結した1つの空間をつくっています。もし訪問していただければ、きっとお気に召しますよ。
今日沢山の会員に集まって整備をしたのは、このあと9月に入って関東から読売クラブのウオーキングの一行がたくさんやってくるという事情もあったからです。
9月4日と10日にはバス3台。11日にはバス13台、合わせると数百名になるでしょう。コースは大町の仁科神明宮を起点に、池田町のハーブセンターまでを「歩きたくなる道500選=北アルプス展望のみち」ぞいを歩く約10キロです。
そのコースの終点近くが我がバラ園。ウオーキングコースに組み込まれたという事情があったのです。
ただ、大勢が来る11日は午前中に「被災地支援の交流会」が行われ、午後からは「原発学習会」を早くから計画していたので、今日はそれにどのように対応するかを協議しました。その結果、お茶やコーヒーなどのもてなしはできないが、何人か園内にいて案内だけはできるようにしようということになり、担当も決めました。安曇野の田園風景を見下ろしながら、園内で一休みしてもらえるのは、開園の趣旨にも沿うことだしうれしいことです。


さて、話は一転して、野田政権発足について。昨日の民主党代表選挙を見ていて思うのは、衆参国会議員だけで政党の党首を決め、それが一国の首相に押し上げられるという何とも言えないこの政党の「軽さ」=国民軽視・無視の体質。この政党では誰ひとり異議を申し立てる人がいないんですかね。

野田さんは押しも押されぬ「靖国派」のひとりですからね。その言動をWikipediaで見ると、たとえば次のようなものです。

「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない。戦争犯罪人が合祀されていることを理由に首相の靖国神社参拝に反対する論理は破綻しているが、小泉総理の見解ではその論理を反駁できない」
「参拝の是非は国際政治的な利害を踏まえてなされるべきもので、誤ったA級戦犯理解に基づく是非論はA級戦犯とされた人々の人権侵害であり、人権と国家の名誉に関わる問題である」
「東京裁判を受諾したという政府や外交当局の見解によれば、裁判における南京大虐殺20数万や日本のソ連侵略といった虚構も含め、日本が満州事変以降一貫して侵略戦争を行って来たという解釈を受け入れることになってしまう」


これは、昨日書いた新自由主義史観の持ち主たちの歴史観そのものです。
このような歴史認識を持つ野田首相のもとで、いったいこの国はどうなるのか。大変あやういことです。
この人を首相に押し上げた力学は、おそらく小沢と一定の距離をとりつつ、自民党に限りなく親和力の強い彼をもって、「中庸」などとねらいをボカしながら自民党型の政治を復活させることに向かったのでしょう。自民党は「大連立」に一応の警戒感を示しつつ、一方で政策的にはほとんど違わない民主党の相当部分を取り込む戦略をえがいていくのではないでしょうか。
それを示すのが野田さんが文藝春秋9月号に寄稿した「わが政権構想ー今こそ『中庸』の政治を」という一文です。

この中で彼は、日本の直面している課題を3つ挙げています。その第1は「国内産業の空洞化」に象徴される産業の危機。
ここでは、民主党が昨年策定した「新成長戦略」で今後10年間の具体策は出そろっているとし、「実行こそ最大の戦略」だと主張しています。
国内産業を空洞化させてきた張本人である多国籍大企業の過去の戦略や、国内中小産業と働く人々の雇用を犠牲にもうけをため込んできたことには一切目をつぶっています。そこには労働者の賃金水準を引き上げ、内需の拡大で経済危機を打開するという戦略はひとかけらも見当たりません。
新自由主義とは一線を画すという言い方はしているものの、その中身は何らそれと変わるものではなく、自民党の経済政策ときわめて近いものになっています。
第2は、「電力・エネルギーの危機」
冒頭「原子力の『安全神話』は崩れました」と一応は書いて見せますが、結局今後の電力事情からいって原発は即座にやめるべきではないとして、「厳しい現実を直視すれば、安全性を徹底的に検証した原発について、当面は再稼働に向けて努力することが最善の策ではないでしょうか」「少なくとも2030年までは一定割合は既存の発電所を活用する、原子力技術を蓄積することが現実的な選択であろうと思います」と書いています。
原発の輸出についても「私は短兵急に原発輸出を止めるべきではない」「日本は今回の震災事故を契機に、原発安全の新たな技術を蓄積し、また、しなければなりません」というのです。
原発を止めても基本的には電力は不足はしないし、仮に不足するとしてもそれは夏場の何日か、しかも数時間だという科学者の指摘を真剣に受け止めて検証することの方が先ではないのでしょうか。
「石油資源の枯渇」「電力不足」だから代替エネルギーとしての「原子力発電」という構図こそ、これまでの原発シンジケートの描いてきたもの。会社と一体となった電力関係の労働組合から議員を送り込まれている民主党としては、原発ゼロとは言い難い体質を奥深くに持っていることを野田さんははしなくも示していると言えるでしょう。
第3は、財政危機。
「財政再建は未来への責任」だとのべつつ、6月に策定した「法人実効税率の引き下げや2010 年代半ばまでに段階的に消費税率(国・地方)を10%まで引き上げる」とした社会保障・税一体改革の成案にそって、「覚悟をもってこの一体改革を実現していきたいと考えています」と書いています。消費税増税論者として国民犠牲型の政治の推進を宣言しているのです。この点でも自・公との違いはありません。
そして最後に、わざわざ「日米同盟は最大の資産」という章を設けて、安全保障問題を論じているのですが、ここも彼の「面目躍如」といえる部分。それは次の主張で明白でしょう。

私たちは、日米同盟が現実的な利益のみならず、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配、「航行の自由・サイバー・宇宙空間の保護」といった基本的な価値を共有することを強く自覚しなければなりません。日米同盟は、日本の安全と繁栄に不可欠な役割を果たしているのみならず、アジア・太平洋地域、さらには世界の安定と平和のための「国際公共財」です。

アメリカとより一体化した軍事力の海外展開をもくろんで「動的防衛力」という構想を打ち出し、「運用のダイナミズム」に焦点をあてて体制を整えるという彼の物言いには、アメリカと対等な外交関係を築くとした初期の民主党の理念などは完全に忘れ去られ、ただアメリカに擦り寄り軍事一体化をすすめる決意を披瀝する卑屈さ。
沖縄県民の人権、沖縄県民の意志を尊重するという民主主義のイロハはどうなるのでしょう。普天間基地の撤廃を求める沖縄県民の総意を尊重することは、アメリカとの共通の価値観には入らないのでしょうね、きっと。

こうして、野田政権は「最大の誤算」に向かって、ひた走ることになる。これらの「政策」が早晩行き詰まるのは目に見えており、そのときこそ民主党が政党として国民から見放されるときでもあるのでしょう。
近い将来、月刊誌「世界」で誰かが書いていたように「ミスターX」の登場で、ナチス並みの方向に行くのか、それとも国民本位の改革へと舵取りをする方向を選ぶのか、いよいよこの国は正念場を迎えていると感じ一日でした。



  8月29日(月)    
9月の声が聞こえてくるとにわかにいろんな行事やら仕事やらが増えてきて忙しくなる気配です。
このところ私は腰の痛みがとれず、加えて左手首(右手でなくてよかった!)の筋に強い痛みがあって手首がまわらないという全く不自由な状態に。雨が多かったのでそれほど農作業やパソコンをやっているわけではないのに、どうしたことでしょう。キーボードを使うのもままならないほどなので、これはもう身体を休めておくしかないかとあきらめています。

昨日は町内いっせいの避難訓練だったのですが、もともと妻は長野篠ノ井でボーリングの大会があったので、私もついていって、妻が試合をしている間私は温泉に。薬湯にはいって少しでもよくならないかと思ったのですが、どれほど効果があったのでしょうか。もっともずっと温泉に入っていたわけではなく、寝転んで本を読んだり、マックに入って本を読み継いだりしてのんびり過ごしていました。

昨日読んでいた本の一冊は岩波ブックレットの「知られざる被爆労働ーある青年の死を追ってー」。原発の被爆労働者は「これまでに30万人を数えるまでになった。・・・日本には(広島・長崎の被爆者集団と)ほぼ同じ規模の二つの被爆者の集団があることになる」。この膨大な被爆者の圧倒的多数は、原発メーカーの下請け労働者であり、彼らの必死の作業によって一定の「安全」が確保されてきたのです。しかし被爆についてはその実態はほとんど明らかにされず、被害についても労災認定の壁は厚く、彼らは無権利状態に置かれてきたのでした。
このささやかな一冊は、1人の青年の被爆死をめぐる実態を通して、原発労働者の過酷で人権無視の実情を明らかにしています。
「原発被爆労働者の場合には、被爆すること自体が労働の本質でありノルマですらある。原子力産業は、ある一定の人数の労働者が死んでいくことを前提にして存在する。労働者の使い捨てによって成立しているといっても過言ではない」という筆者の指摘は、福島の大事故を経ていよいよ重く心に響きます。

もう一冊は、「目からウロコ」が落ちるどころか、読んだら目が汚れてつぶれそうな本、藤原正彦著「日本人の誇り」(文春新書)です。
彼が「国家の品格」という彼の品格が疑われるような本を書いたときも、徹底的に批判しましたが、彼はこの本でいよいよ歴史修正主義、新自由主義史観の先兵としての役割を果たし始めたと痛感しました。
なんでこんな本を、と思われるかもしれませんが、内容が陳腐だとか特異だとかすでに批判済みだとかというだけではこの種の「俗説」はいつまでもなくならない。日本にはこうした議論が拡大再生産される素地があるのです。だから、その都度、きちんと相手の言い分を知って「言論」で批判し尽くす必要がある。
この本の帯には各界(右派知識人)の大絶賛の声が書かれ「30万部突破」などと大見出しが踊っています。ひと頃、藤岡信勝、西尾幹二、小林よしのりらの「新しい歴史教科書をつくる会」が「脚光」を浴びて書店に平積みされていたことがありましたが、組織的内紛・分裂さわぎなどもあって下火になり、それにかわって2,3年前から装いを凝らして登場したのがこの数学者先生。
主張はこれまで先輩たちが一様に述べまくってきたことがらと何ら変わるものではありません。問題は、装いを替えてこうした主張がもてはやされるこの国の異常さにあります。

「数学者」といえば、インテリ中のインテリのように思われるかもしれないけれど、前回も書いたとおり、歴史をひっかきまわして一知半解ぶりをさらけ出すより「数学だけやっていればいいのに」というのが私の感想でした。読まなきゃよかったと本気で思いましたもの。
その昔、ラッセル・アインシュタイン宣言を持ち出すまでもなく、アメリカのベトナム侵略戦争ピークに達していた頃、日本の数学者たちはこぞって戦争反対のアピールを出していたものです。最近では核廃絶を求める数学者懇談会や科学者9条の会での数学者の活動なども知られています。純粋な原理や美を追い求める数学者たちは元来平和指向なのですよ。

ところで藤原先生、高校生に聞いたらだれでも答えるくらいの論理の初歩、「命題の逆・裏・対偶」って何でしたかね。
この本の27ページに次のような解説があったので、生徒に出題してみようと思いました。

この世のあらゆる事象において、政治、経済から自然科学、人文科学、社会科学まで、神髄とはすべて美しいのだと私は思っています。・・・真理にたどり着くには美しいものを探せばよい、ということになります。逆に言うと、美しくないものは神髄ではないのです。

何が問題かというと、2つあって、もとの命題は正しいとして@「真理にたどり着くには美しいものを探せばよい」は正しいか。A「逆に言うと、美しくないものは神髄ではない」は正しいか。
藤原先生が言いたいことはこういうことでしょう。「ある法則が神髄ならばそれは美しい」。まあ、そう思うのは藤原先生の勝手ですけど。
この命題の逆は「ある法則が美しいならばそれは神髄である」。これは明らかに「偽」ですね。美しいものが神髄なら、イケメンは人間の神髄で、私のような人間は神髄でなくなってしまいます。私なんかはどうでもいいけど、藤原先生も同じ口でしょ?だから美しいものを探してもそれが神髄であるかどうかなんてわかりません。美しいものを探しまくれば、そのうち幸運にも神髄は見つかるのかもしれませんけどね。必要条件ではあるのでしょうが十分条件とはならない。それをあたかも同値であるように主張するのは数学者らしくありませんね。
もとの命題の対偶は「ある法則が美しくないならばそれは神髄ではない」となりますから、「逆に言うと」じゃないですね。「この命題の対偶は、・・・」と書くべきでした。藤原先生、「適当に書いておけば何となくわかるんじゃない、細かいところまでは読まないだろうし」と思っていません?
ま、これはそれ以上つっこまないことにしましょう。全く枝葉末節ですから。問題はそんなところにはないのです。

藤原先生の主張をまとめると次のようになります。

第1。日本は、江戸時代、明治期を通して海外の識者が日本の見聞録で書き記したとおり「恐らく歴史上日本以外の世界のどこにも存在しなかった、貧しいながら平等で幸せで美しい国を建設していた」「人々は健康そうで礼儀正しく正直だった」
「山ばかりで資源もない極東の小さい島国でありながら、古くより偉大な文学や芸術を大量に生み、明治以降には驚異の成長をなしとげ、ついには5大列強の一つにまで発展させた、優秀で覇気に富んだ日本民族はいったいどうなってしまったのでしょうか」
「彼ら(外国人)の言うことを疑うことより、皆貧しかったのにどうして幸せそうだったのか、を問う方が本質的なのではないでしょうか」
「(日本は海外の文化を批判的に取り入れ、「和」の精神で独自のものとし)こうして世界7大文明の一翼を担う、堂々たる日本文明が完成したのです」
「家族愛、郷土愛、祖国愛、この3つの愛が人間の基本だからです。この3つが固まって初めて、最も崇高な人類愛を持つことができるからです」

第2に、現在は日本人は後ろ向き、下向き、自虐的になり何事にも自信を持てなくなっている。今、日本は全面的な崩壊に瀕している、そして国民は何よりも大事な祖国への誇りさえもてなくなってしまっていると嘆きます。

第3に、ではなぜそうなってしまったのか。
祖国への誇りを失ったのは戦後のことであり、アメリカから押しつけられた憲法憲法前文と第9条によって「日本国の生存は他国に委ねられ」(どこかの国に守ってもらわなければならなくなったという意味か?)、天皇を元首から象徴にすることによって「国民の求心力の解体」がすすめられたからなのだそうです。そして、「世界から絶賛されていた教育勅語を廃止して作った教育基本法」で「個人主義を導入し公への奉仕や献身を大事にするという日本人の特性を壊」されたからだと述べるのです。
こうしてアメリカの仕掛けた罠にやすやすと乗ってしまい日本の伝統や「基軸」が崩壊していく。「驚くべきことにほんの数ヶ月もしないうちに、戦前の皇国万歳からアメリカ万歳や容共路線に急展開したのです。はしっこい日本人は豹変したのです。日本人の最もいやな点です」
さらに、アメリカが日本に押しつけ日教組によって広められた戦後史観の土台は「東京裁判」にあるとし「結論的に言いますと東京裁判は・・・人類史の汚点ともいうべき『裁判』なのです。・・・一言でまとめると『戦勝国による敗戦国への復習劇』に他なりません」と歴史の舞台に踏み込んでいきます。

彼の論理は、従ってこの「東京裁判史観」を捨て去り、江戸期から戦前のあのよき時代の日本の気概をとりもどすことこそ現在の危機を乗り越えるカギとなるというものです。
彼はこうした持論を裏付けるために異常な熱意を込めて、明治の戦争からアジア太平洋戦争(彼は大東亜戦争としかいいませんが)までの歴史を展開するのです。
とくにこの中の一節を割いて「南京虐殺事件」について、それが虚構であったことを論証しようとしていますから、この点は全く無視できませんし、戦中から戦後の事件の影にコミンテルンの影がつきまとい、アメリカのルーズベルトもコミンテルンに操られていたというたぐいの歴史認識ですから、とてもまともな歴史研究者の常識からは判断できない特異な歴史観を披瀝しているのです。
あの「大東亜戦争」は、欧米からの挑発や禁輸のなかでやむなく行った「自存自衛の戦争」であり、「大東亜共栄圏」という思想は「利己的なものではなく、白人の牙から同胞アジア諸国を守るという、幕末のアジア主義であり、日本人の危害のほとばしりでもありました。実際、日本以外にそんな気概のある国は皆無だったのです」とまで言い切る始末。
ただ一つ気をつけなければいけないのは、彼のロジックの底流にある、「当時のことは当時の国際常識で見ることが必要」だという言い方です。たとえば「満州事変は現在の定義ならあからさまな侵略であるのに、当時の定義では侵略とは言い切れなるものではなかった」というたぐい。自己を戦前までの「国家」に同一化し、そうしてつくりあげた自価値観に合わせて歴史常識をつくりあげ、その中で事実を歪めていく手法は歴史修正主義の大きな特徴です。
現状(現象)をいろいろ並べたり、それを嘆くのは一向に構わないのですが、自分の都合の良い局面だけを恣意的に切り取るのはフェアではありません。
たとえば、戦後、アメリカの対日政策を軸に自民党政権が教育に差別と競争原理をどんどん持ち込んで財界向けの「人間づくり」をすすめてきたことは、一切触れられていません。さらに、大企業を中心に、「憲法を職場の外に置いてこい」という徹底した労働者管理がすすめられ、果てはここ10年余りの間に不安定雇用が常態となる労働実態がつくられ、長時間・超過密労働が強いられてきたことにも、この先生は全く知らんふりです。

この本の最後に至って、藤原先生は「絶好調」、言いたい放題です。最後の章では、戦前の価値観の復権、憲法改正、アメリカと対等な強力な軍事力の保持で祖国への誇りを取り戻せ、「個の尊重」より国柄が大事なのだともはや開いた口がふさがらないような過激な主張まで飛び出す始末。「基軸」を据え間違うとどこまで落ちていくかを示す典型ですね。

はっきりしておきますが、この本に書かれたことはすでに言い古されてきた言説の受け売り、焼き直しに過ぎません。歴史研究の第一線に立つ歴史学者の批判に耐えるものは何一つなく、復古的右翼的な政治的プロパガンダのたぐいに過ぎません。
しかしそうだからといって、こうした相も変わらぬ歴史修正主義の流れを無視したり軽視したりするわけにはいかないことは当然です。歴史学者を含め、国民的なレベルで、戦前の亡霊のような彼のニセ歴史「論」を、徹底的に粉砕し尽くすこと、そして同時に、それとは全く異なる新しい国民中心の歴史への展望をひらくことがいまきわめて重要だろうと思われました。そしてこのことは草の根での深い議論ぬきには不可能なことでもあるのだとも。

最後に高橋哲也さんの次の一節をかみしめてみましょう。

「歴史修正主義者」の誤解に反して、自分の所属する国家の戦争責任を認めることは、「子々孫々」に至るまで「罪人の子孫」扱いを甘受することではなく、まったく逆に、自分とかつての国家との連続性を断つことによって他者の信頼を回復していくポジティブな行為、肯定的・積極的な行為なのだ。
                      「思考のフロンティア 歴史/修正主義」(岩波書店)




  8月26日(金)    
昨夜は、池田町創造館主催の映画会に妻とでかけました。出し物は井上ひさしさんの「父と暮らせば」(黒木和雄監督)。妻は演劇でよく知っていたようでしたが、私ははじめてでした。
ほとんど前編、美津江(宮沢りえ)と竹造(原田芳雄)の2人舞台で、そのやりとりの中から原爆被害にあった広島の悲劇と希望とを痛切に描き出している映画です。
物語はさまざまな映画紹介で行われているので、ここでは一切省略しますが、ただ一つ原爆資料を保存しておきたいという青年(浅野忠信)が美津江のところに持ち込んだ原爆瓦のことが私の経験と重なって深く印象に残りました。
昨日は、原発問題をクラス発表で調べたということを書きましたが、次に担任した学年では原爆問題をとりあげて生徒たちといろいろ調べたのです。その際に、広島の高校生たちが太田川から原爆瓦を拾い集めているというニュースを聞き、すぐに連絡をとって実物を送ってもらうことができたのでした。
原爆の高熱で焼かれた瓦のかけらには、映画で見るようなササクレだったものはありませんでしたが、焼けて泡だった跡が残っており、クラス展示で最も目を引いたものになったような気がします。映画を見ながらふと当時のことを思い出しました。
ちなみに3サイクル目の担任の時のクラス展示のテーマは「アパルトヘイト」。当時東京に来ていたアフリカ民族会議の日本代表にインタビューしたり、苦しい生活を強いられている南アフリカの人たちの生活の模様を実物模型で作ったりと、相当熱が入ったものになりました。
卒業して今はもう家庭を持って、よき父母となっているだろう当時の生徒たちは、原発の事故や南アフリカの現状を見てどのように思っているのでしょうか。

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私が編集を担当(事務局長は降りた)している共産党池田ファンクラブのニュースに、全障研事務局長の薗部さんが連載を快諾してくれ、8月号から掲載を始めました。そのタイトルは「見た・聞いた・考えた〜北欧の福祉・教育を考える旅から〜」
彼とは7,8年来のおつきあいで、著書「北欧考える旅」も以前紹介したことがありました。毎年春夏にそれぞれの実家へ里帰りする際の休憩地点が我が家になっていて、そのつど海外の様子を聞いたり障害者の運動について話を聞くことが楽しみでした。

その連載第1回目の記事の中に、日本の福祉について、
初めて訪ねたときは、『日本と比べると30年くらいの差かも』と感じた。日本だってがんばってるしさ。でも、2度目には『3世代くらい経たないと民主主義は育たないのかも』と感じた。そして3度目、『マラソンのトップランナーの背中はもう見えない』。
というくだりがあります。それにつづけて彼は8度の訪欧を総括して、
それからは日本との『差』を比較するのではなく、その『違い』の背景、とりわけ『思想』を学ぼうと決めた。
とも書いています。
私はかつて、こうした北欧の現実について「あたりまえのことがあたりまえに行われている国があるということを知るだけで、私たちの運動の支えになる」という趣旨のことを書きましたが、その「あたりまえ」とは日本で言えば日本国憲法に規定された平和や基本的人権、地方自治などのことをさします。それが文字通り実行されていれば、日本も北欧から10年〜20年遅れで済むかもしれなかったのです。
だから、「トップランナーが見えない」というのは、北欧が先に進みすぎているのではなく、日本がそれだけ憲法の理念から外れ、何周遅れというよりも道をそれてしまっているのではないかとさえ思います。

鎌田慧さんは「日本の原発危険地帯」のはしがきで、
「IAEA(国際原子力機関)の指摘によれば、非難対象になっていない『40キロ圏内』の汚染は、避難基準の2倍に達しているという。国際基準よりも日本が緩やかなのは、人権感覚のちがいでもある」
と書いています。
この「人権感覚」の低さ、遅れは、単に放射能の問題だけではなく、日本のあらゆる分野で現れていると感じます。北欧の福祉が「高負担だからできる」ように曲解されたり、「小さい国だからできる」などと思われたりしているのかもしれませんが、全くそうではない。薗部さんが言うように、まさに「思想」なのであり、それにもとづく人間としての「感覚」なのです。
鎌田さんの本で書かれている、カネと権力にまかせた原発立地への動きの全過程はまさにその典型ともいえるものです。
蛇足ですが、ここで書き添えれば、私はその「感覚」を研ぎ澄ますカギは,何と言ってもあの戦争と戦前の体制に対する個人レベルでの徹底した批判が全国民的に行われることだろうと思います。今日の人権感覚は、戦前の体制と連動しているからです。

薗部さんの連載はこのあと5回の予定(あまり負担にならないようにとクギをさされていて、5回が限度となりました)です。短い連載の中でも、きっとそうしたいろんな疑問に答えたり私たちに最も求められているのは何かを示唆してくれるのではないでしょうか。楽しみです。薗部さんどうぞよろしく(・・・とプレッシャー)。



  8月25日(木)    
鎌田慧さんのルポ「日本の原発危険地帯」を読んでいて、福井県若狭湾の原発のことが最初に出てきました。カネと権力で漁民をだまし、懐柔し、ひしめくような原発銀座をつくりあげた当時の様子を市民の目線でたどっている渾身のルポです。これを読みながら、私もまた70年代半ばに若狭を訪れたことを思い出していました。
このことについては折に触れて簡単に書いていましたが、今日はちょっと思い立って寄稿文風にまとめてみました。
ちょうど昨日、高校生は試験中で「試験勉強をさせてほしい」というので授業にならず、3時間も後ろで自分のことができたという「ラッキー」なひとときがあったために、それを利用して書くことができたというわけです。

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福井県小浜市門前に妙通寺という古刹がある。鎌倉時代建立の本堂と総高22bの三重の塔は堂々としたたたずまいで、いずれも国宝に指定されている。


その寺の住職中島哲演さんにはじめてお会いしたのは1975年か76年の夏だったろうか。私より4歳年上で当時まだ若かった哲演さんは、すでに若狭に林立し始めた原発に早くから疑問を持ち、地元で反対の世論をつくるために全力を傾注していた。
名古屋から富山の県立高校に転任した年だったか、その翌年だったか今は定かではないのだが、その学校の文化際のクラス発表に原発問題をえらび、生徒たちといろいろ調べ始めたのだった。
原発というものがいったいどのようなものなのか、どこに建設されているのかともかく見ないことには始まらないと、私はクラス代表をつれて福井まで車で出かけていったのだ。

まず訪れたのは美浜原発。原発そのものは入れないし見られないので、その道中にある原子力PRセンターで話を聞くしかなかった。
その中で係員から説明を聞いたり展示を見たりしたかぎりでは、原発は何重もの防護が施され絶対安全につくられているということや、夢の原子力によるバラ色の未来といった描写だけで、その危険性などといったものはみじんも感じられないものだった。係員が原発を「原電」と呼んでいたことが妙に耳に残っている。
その足で次に向かったのは、同じ小浜の妙通寺。たぶん人づてにここの住職が原発に反対していると聞いていたからだろう。生徒に、賛成・反対両方の意見を聞かせてやりたかったことから住職の話を聞いてみようということにしたのだ。
「原発が安全なものならなぜこんな辺鄙な場所につくるのか」と生徒たちとも話し合っていたこともあって、たぶん中島哲演さんにもそうした疑問をぶつけていたかもしれない。今となってはその当時の話を思い出すすべもないが、彼から仏教の教えについて、差別の構造について話があったようなかすかな記憶がある。

今年6月2日付けの仏教タイムスに「原発事故が問う未来と宗教」シリーズの第一回目として中島哲演さんの一文「警告発することも宗教活動」が載せられている。
1960年代から40年以上にわたって原発とたたかい続けている哲演さんの考えと生き方を凝縮したものともいえる一文だ。

その中で彼は原発には3つの差別構造があると書いている。
1つは「都市による地方への差別」、
2つは「原発で働く労働者に対する差別」、
3つは「子どもたちに対する差別」。
全体として宗教者らしい抑制した表現の中にも、たとえば福島での事故処理にあたる労働者に対して「基準値を超える放射線量を浴び、決死の作業をしている労働者が7千人から8千人います。多くの犠牲の上ではじめて現代の生活が保障されていたのです。これでは戦争末期の特攻隊と同じです」と書いたり、「国策として始まった原発政策は御用学者や電力会社、大手メーカー、大手ゼネコンのオールキャストで推進されてきました。近年では、国際的にも原発ルネッサンスと言って、中近東やアジアに原発を売り込もうとしていました。・・・この巨大なシステムの中で、すでに倫理観は失われ原発行政のシステムは老朽劣化し、腐臭を放っています。福島原発の残骸は、私の眼にはその破綻の象徴的な姿に映りました」と容赦ない。

当時私はまだ原発反対の確たる信念もなく、ただ原発推進勢力につきまとうウソっぽい体臭に我慢がならなかっただけで、このときから次第に原発と放射能の問題を考え始めたのだった。その意味ではこのときの妙通寺訪問が私の原発反対元年ということになるだろうか。
蛇足だが、お寺を訪問した帰りに私の車がガス欠であることに気がついたが、どこにもスタンドらしいものはない。やむなく中島さんの車からガソリンをもらおうとしたが、取り出すことができない。哲演さんにホースを借り、サイフォンの原理よろしくガソリンを口で誘い出そうとして、口の中にガソリンが吹き出してしまったアホな経験がある。それも今となっては忘れられない思い出だ。いまでも哲演さんに感謝しきり。3年前に脳梗塞をわずらったと記事でみたのだが、これからも住職として原発反対の中心としてご活躍されることを願わずにはいられない。

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今朝のこと、チャンネル探しをしていたときに、たまたま盲目のピアニスト辻井伸行さんの生演奏で、「神様のカルテ」の主題曲を聴くことができる幸運を得ました。
2年前のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールでの優勝前後の取材記録はかつて見ていたし、テレビでは何度か演奏を聴いていましたが、まさか映画音楽まで手がけているとは知りませんでした。
番組では司会の女性が弾く和音をそのまま再現する「曲芸」に挑戦するとか、軽井沢での独演会でのトークを紹介するなど”おちゃめ”なエンタテイナーっぷりを発揮。
すでにテレビドラマでは、フジテレビ系ドラマ「それでも、生きてゆく」の音楽を全面的に担当しているようだから(知らなかった)、彼の頭の中ではさまざまな音楽であふれているのでしょうね。
「神様のカルテ」の主題曲、リリカルで甘く、若々しい感性にあふれていました。テレビや映画音楽でも今後活躍してくれるのでしょう。楽しみです。

昨夜からまたずっと雨。これでは穂が充実するこれからの稲の生育にそうとう影響がでるのではないでしょうか。



  8月24日(水)    
ニラの花が真っ盛り。ふと見るとミツバチがたくさん蜜を求めて飛び回っているではありませんか。わんわん羽音をたてています。いや、嬉しかったですね。
というのも、例年沢山咲くはずのゴーヤの花が今年はさっぱりで、しかもミツバチが全く寄ってこないので不思議に思っていたのです。ミツバチがいなくなったのかと心配していたら、どうやら好みがニラの方に移ってしまったらしい。ともあれ一安心です。




久しぶりに晴れ間が出て、朝からイチゴの苗づくり。これでようやく終わりです。全部でどれだけの苗ができたのでしょうか。もう数え切れないほどになってしまいました。多分400株は超えている!一株100円として・・・・。
しばらくポットで育てて、その中で良い苗だけを畑に植え替えることになります。これは9月に入って雨が降る頃。マルチをして十分に水遣りをしないといけないので、結構手間暇かかります。来年こそたくさんイチゴが収穫できますように。

その後はバラ園の草刈り。コスモスやひまわりが雨で倒れているため、それを取り除いたあとまわりの草を草刈り機で刈っていたら、もうそれだけで汗びっしょり。暑さもついでに戻ってきました。
家に戻ってシャワーを浴びたら、今日の仕事が終わったような気持ちです。


夕方からは高校生のお勉強があるので、それまでの間、原発関係の本読みです。



 

  8月23日(火)    
梅雨が復活したかのような長雨。じっくり降るのもいいのですが限度がありますからね。
夏期講習が終わって数日、やることといえばイチゴの苗取りくらいで時間をもてあますほどですが、それだけに緊張感が薄れて、今日は大失態。本を読んでいて夢中になり知人との約束を完全に忘れてしまった。2度と繰り返さないように自分を戒めて予定メモにしっかり書き込んでおくことにします。Mさんごめんなさい。

その読んでいた本というのが石橋克彦さんの「大地動乱の時代」(岩波新書 1994)。地震学者の石橋さんの本では東北地方の地震やそのメカニズムには全く触れられていませんが、書かれていることは全国的に共通することが多くあります。ただ、関東・東海・南海の地震については様々なプレートの動きと連動し、かなり複雑なのでまず石橋さんの説に耳を傾けてみなければならないでしょう。

上に紹介した本の前半では、日本で起きた過去の地震(主として首都圏、東海)について様々な文献や実地検証をもとに、ユニークな物語を展開しています。筆者の物書きとしての力量を示す部分。もちろん面白おかしく書いているわけではなく、次の章への導入の役割をしている重要な部分であるわけで、これほどまで克明に過去の地震の状況を描写できるとは正直驚きでした。

次に石橋さんは、関東地震、東海・南海地震のメカニズムを(一つの仮説とことわりながらですが)過去の地震と照らし合わせながら解明していきます。それを説明する次の図を提示しています。




現代の地震学の主流であるプレートテクトニクス理論は既知のものとします。石橋さんの説の要になるのは小田原での過去の地震活動です。フィリッピン海プレートが北西進してオホーツクプレートおよびアムールプレートとぶつかりその下にもぐり込む動きを追跡。関東・東海・小田原地震の間にある4つの規則的な関連があることをみつけます。
1.関東地震は小田原地震と同時(1703年、1923年)に起こっていること。(上の図のR領域)
2.東海地震は小田原地震に引き続く数年以内に発生していること。(1707年、1854年)(上の図のD、E領域)
3.首都圏直下地震は活動期と静穏期がある。活動期は東海地震によって始まり関東地震によって終わる。(図のS領域)
4.伊豆大島の噴火が小田原地震に先行している。またそれに先だって首都圏直下型地震が多発している。(図のK領域)

そのメカニズムを説明するのが次の図。


1.まずRで小田原地震が発生。止め金が外れたようにフィリッピン海プレートの動きが容易になり、D+Eに変形が追加される。
2.東海地震がD+E領域で起こる。RとD+Eで沈み込みの止め金が外れ、フィリッピン海プレートはさらに北北西進。
Sが破壊される前に一回り小さな地震源が影響を受ける。富士山の噴火の可能性も。
続いてa〜dで連鎖的な活動が始まる。そのうちのどこかでM7クラスの地震が起こり、さらにフィリッピンプレートの沈み込みが加速。
最後にM8クラスの関東巨大地震がS領域で発生。ひとつのサイクルを閉じる。

一つの仮説ではあれ、過去のデータを十分に検証し、細心の地震学の成果を取り込んで説明しているわけで、説得力があります。そうした知見をもとに、最後に石橋さんは今後予想される最悪の「シナリオ」として次のような一連の地震予測を立てています。
最後の小田原地震が1923年だったので、それに先立つ4回の小田原地震の間隔70年〜80年にあてはめると、20世紀終わりまたは21世紀初頭にM7クラスの小田原地震(神奈川県西部)が起こりうる(2007年10月にM4.9の地震が起きてはいるが、まだM7クラスには至っていない)。
その後数年以内にM8クラスの東海地震が起こり、その後首都圏は大地震の活動期に入る。M7クラスが何回か起こりうる。
最後に関東巨大地震が引き起こされる。

さいわい、この仮説は現在のところ仮説のままになってはいるものの、いつどのように地震が起こるかは全く予断を許しません。
石橋さんは東海・南海地震のメカニズムは単にフィイリッピン海プレートの動きだけではなく、西日本が乗っているアムールプレートの東進の動きにも注目する必要があると指摘しています。
「西南日本と東北日本が別々のプレートに属するという、83年ごろに登場した新しいプレート論が本質的に重要である。それに通説の『東北日本北米プレート説』ではなくて、私が『西南日本東進説』と呼ぶ考えが必要である」
今後の地震学の進展に期待するほかありませんが、通説であれ、石橋説であれ、いずれにしても小田原周辺や東南海沖地震、首都圏直下型地震、それに糸魚川静岡構造線沿いの地震には十分に注意し、備えをすることが求められます。

石橋さんは、差し迫る巨大地震への対策を危機感を持って訴えています。とりわけ首都圏での地震被害は余りにも巨大であるため、首都機能と人口の分散、地方主権を主張、私たちの子孫と世界のために直ちに行動に移すことを提案しているのです。
その理由はとして彼があげているのは、第1に「首都圏の地盤の悪さ」。ニューヨークが約5億年前にできたコチコチの岩石の上にあるのに対して東京を含む関東平野の半分近くは約2万年前に堆積した砂や泥が中心。第2に、長周期地震動など長大構造物に思いもよらない影響を与える現象が起こりうること。地震工学の盲点をつく事態が発生しうること。第3に、氾濫する自動車、地下の鉄道、高速道路、新幹線、空港、ガソリンスタンドなど都会特有の危険要因が無数に存在すること・・・などです。
そこから引き出される結論は、「どんなに遅くとも21世紀半ばまでに、関東平野の過密を完全に解消して均衡ある分散型国土と社会を完成しなければならない。なぜならば、そのころには相模トラフ巨大地震発生の可能性も高まってくるからである」

奇しくも、首都圏での地震より先に3.11東日本大地震に見舞われてしまいました。これは石橋さんも想定していなかった出来事であったのではないでしょうか。この地震によって、プレートにかかる圧力が変化したとも言われています。余震活動や誘発地震は相模トラフで止まっているように見受けられるので、どのような変化がもたらされるのか大変気になるところです。
最後の図は、政府の地震調査研究推進本部による、主要な98断層帯についての活動度の評価。関東、東南海の他に、活断層の活動に細心の注意を払うべきでしょう。

なお、石橋さんは、3.11以前から起こりうる地震は「原発震災」となることを警告、積極的な啓蒙活動を行っています。以下はその一つです。

原発震災ー破局をさけるためにー




  8月18日(木)    
高木仁三郎さんの「市民科学者として生きる」を読んでいたら、ふと自分の生い立ちとか考え方の土台のようなものがどのようにして身についてきたのか、実は子どもたちにも話したこともないし書いたこともないなと思われてきました。別に息子や娘から聞かれたわけでもなく、自分から話そうと思ったこともなかったのですが、いずれ何かの機会にそうした記録が必要かなと、突然思われてきたのです。妙な気持ち。
全く自慢できるような生い立ちでもなく、恥ずかしいことの連続ではありましたが、それでも現在の私を形成しているものが何なのかを跡づけることは自分自身にとっても大切なのではないのだろうかと、ふと思ったわけです。自分自身のことをゆっくり考える暇がなかなかなかったともいえるし、仕舞いが近づいているのだともいえるし・・・
ここでそれを紹介することはこの記録の趣旨には合わないようにも思うし、どうしようかなと思案中。そのうちのいくつかはここで書くべきこともあるだろうとは思いますが、全体を通しては別の書き方をするつもりです。いつどのようにそれができるかは未知数ではあれ、近いうちに必ず実行しようと思っています。
高木さんの子どもの頃や学生時代のことを読んでいると妙に親しみを覚えました。彼に触発されながら、ああこんなこともあったっけなと記憶をたどっているのです。

夕方から雨。久しぶりのまとまった雨です。しばらく前までは突然雷雨が襲ってくるというゲリラ豪雨的な雨でしたが、今日の夜は「じっくり」と降っていますから、野菜には恵みの雨です。
今日の午前中に畑に行ってオクラを収穫し、ついでに肥料をまいてきたので、雨があがればイチゴや大根の畝をつくることができます。畑はものすごく広いので、秋から来年にむけていろんなものをキチンと植えていきたいと計画しているところです。



  8月14日(日)    
連日の猛暑日。今日も午前中畑に出て草取りをしていましたが、熱中症になってもおかしくないくらいの暑さで汗まみれになってしまいました。
畑では、トウモロコシがようやく実をつけてかなり収穫できました。ただ何本かは動物に食べられ、倒されて食いちぎられた実が散乱。放置しておけばまたどんどんやられるのではないかと思われます。それでも以前のように一夜にして全滅という様子ではないので、ネットは省略。
オクラがどんどん大きくなって、今日は30個ほど初収穫。多分これからは毎日同じくらい取れるのではないかと思います。なぜなら植えてある本数がハンパじゃない。昨年取っておいた種をほとんど全部植えたものだから、100本ほどの木があるのではないでしょうか。これが全部実をつけたらそれこそ出荷しないといけなくなりそうです。オクラの好きな方は是非ご連絡を。さしあげます。
今日は豆の間の草取りをして、あとはジャガイモを少し掘って終わり。これからはイチゴを植えるための畝をつくらないといけません。

家の南側にはゴーヤのカーテンがほとんど出来上がっています。ところが今年は雌花がほとんどつかない。それに例年たくさんやってきてうるさいほどのミツバチの姿が全く見えないのです。何だかおかしい。キュウリだけは、取れすぎるほど取れていますから、これからはオクラとキュウリとジャガイモで生活です。

注文していた原発関係の本が昨日ようやく届きました。ようやくまとまって勉強ができます。さっそく今日から読み始めた本が高木仁三郎さんの「原発事故はなぜくりかえすのか」。ガンで闘病中に書いた最後の本ですから、高木さんの思いがいっぱいに詰まっているように感じます。
この中で、高木さんは日本の原子力開発の出自から言って「日本の原子力の欠陥は上から押しつけられてきた開発のゆがみ」があると指摘、「技術者としての主体性とか自分の頭でものごとを考えるということが、そもそも要求されない」「原子力産業は、みずからの社会的な役割や社会的使命に著しく鈍感」と書いています。
そういえば、今日の「赤旗」は一面トップで、原発事故の収束にあたった作業員の被爆線量の限度をめぐって、東電では「別枠扱い」とされ、他の原発に行けば線量が「ゼロ」からの計測となるという恐るべき実態が暴露されていました。しかも、その根拠となっているのは原子力安全保安院が東電や原子炉メーカーの試算をもとに4月に厚労省に要求した「別枠扱い」の要求です。この実態を知って原発作業員からは「東電保安院」だとの声が上がっているとも伝えていました。
高木さんは後の方で次のようにも書いていました。「いま原子力をやっている人たちの多くが、あまり放射能を知らないで原子力にかかわっているというのは、驚くべきことです。そこに現在原子力をめぐっていろいろな問題が起きている、一つの中心的な欠陥があるのではないかという気がしています」「(JCO事故後)結局放射能に関する基本的な取り扱いというものが原子力産業の中で確立していない、ということについての総括がない」「実際に核物質を扱う分野が軽視されていたということに尽きるでしょう」
今回の東電や原子力安全保安院の対応は、単に核物質の扱いについてずさんであったというのではなく、知っていて労働者に非人間的な仕事を強制しているわけですから、もはや犯罪以外の何ものでもありません。
企業や官庁などで「自分でものを考えない」のは戦前からある日本の組織の「絶対服従」体制の名残ともいえるでしょう。つまり封建的な制度やしくみが根底において克服されていないのです。そうした体制の名残は、単に企業や官庁だけではなく、社会の様々な現場に色濃く残っています。今日TVで放映していた「かあべえ」で描かれた戦前の社会のありかたが、社会の根底で批判され尽くしていない。
時事通信が5〜8日に実施した世論調査で「脱原発依存」社会をめざす考えについて「納得できない」と答えた人が47.7%にものぼり、「納得できる」と答えた40.2%を上回ったと報道していました。その理由は「電力供給不安が残る」(48.7%)、「再生可能エネルギーは未知の部分が多い」(33.7%)、「首相の個人的見解だから」(33.4%)、「経済に悪影響」(31.2%)というもの。ドイツやイタリアなどとは雲泥の差というべきでしょう。
この調査の仕方にも問題はあるとはいえ、ほとんどは「無知」からくるもの。裏をかえせば、報道機関、マスメディアなどが丁寧に放射能の危険性、原発の恐ろしさ、日本のエネルギーの実態などを解説していないことに起因すると言ってもいい。これだけの事故を経て、なお原発は「必要」だと考える世論が形成されていることは恐ろしいことです。
電力が足りなくなるというのは、あの仕組まれた「計画停電」による影響があるでしょうし、財界の言い分をそのまま受け入れている「お上」に従順な「戦前的」体質もあるのでしょう。
もっと賢くなりましょう。そうでなければ、未来を子どもたちに手渡すわけにはいかないのですから。






  8月10日(水)    
ご無沙汰でした。このところ夏期講習が始まり、あまりものを考える余裕もないままに一週間が過ぎてしまいました。もちろん無為に過ごしていたわけではないのですが、いざここに何かを書こうとするとなかなか「筆」が進まず、つい時間がたってしまいました。
この一週間私がやっていたことは「原発」に関する本を読むことです。この間我が家を訪問してくれたHさんにいろいろ本を紹介してもらい、自身でもネットで検索したり本屋に行って調べたりして購入した本、その数20冊余り。ともかく手当たり次第に読んで、原発問題の概要を頭に入れようとしているところです。これについてはおいおい書いていくことにしますが、とりあえず読みやすい新書版で本屋に平積みされている小出裕章さんの「原発のウソ」と「原発はいらない」(幻冬舎ルネッサンス新書)、それにいま話題の「原発文化人50人斬り」(佐高信、毎日新聞社)、「原発の闇を暴く」(広瀬隆・明石昇二郎、集英社新書)を読んだとだけご報告しておきましょう。

私自身についていうと、これまで原発問題は一つの関心事ではあっても、被災地支援や地震、ピークオイルなどの問題に比べるとやや下位になってしまっていました。しかし、考えてみるとこの原発問題は、これだけの被害をもたらし、またもたらし続けているのに政治や大企業の中では依然として必要なものとして扱われ、しかも新たな「安全神話」が日々作り出されているのです。絶対に無視できない重大問題としていま私の問題意識を占めるようになっています。

先日のNHKではある有名な文化人が登場して「直ちに原発をなくするなんて現実的ではない。これだけ便利な生活をすぐに捨てられるのか、電力不足にどう対応するのか」という趣旨のことをしゃべっていました。そうなんですね。これこそが作られた「原発必要論」だと私は思います。
ろくに検証もなしで電力会社の言うがままに夏には極度の「電力不足」が発生するから「原発の安全性が確認されれば運転再開を」という世論を作り出しています。そこでは必ず「いずれは原発から脱却しなければならない」と言い添えられるのです。これは核兵器の廃絶にむけての菅首相の「究極の目標」の考えと全く同じです。小出さんの本でも他の本でも、「電力不足」については原発を存続させるために「作られた情報」であり、火力・水力と大企業の発電能力などを入れれば十分に電力をまかなえることがデータとともに示されています。マスメディアは意図的にこのことには触れない。

原発問題では、知っておかなければならないことが山のようにあります。
第1に、福島で起きている事態は実際はどうなのかという事実経過に関する問題。とりわけ、前電源喪失が津波以前にすでに発生し、地震によって炉心溶融が始まっていたという事実がもっとクローズアップされる必要があります。一連の経過の中で情報隠しが無数に行われてきたことは絶対にゆるがせにはできない。
第2は、どれほどの放射性物質が大気と海に放出されたのか、それは人間を含む生態系にどのような深刻な影響を与えているのか、という放射線についての問題。これはチェルノブイリ原発事故との対比で明確にすべきでしょう。
第3は、この国の原子力行政がどのように進められてきたかという問題。政財官の癒着、利権あさりの構図=原子力利益共同体の構図を白日の下にさらす必要がある。
第4は、原発がアメリカの対日政策の一環としてどのように日本に持ち込まれ、今日まで続いているかという歴史的な問題。原発がいかに未完成の技術であるかをはっきりさせなければなりません。
第5は、全国に54基もつくられた原発個々の危険性の問題。とくに青森県六カ所村の再処理工場と福井県の「もんじゅ」、東海地震震源地の真ん中にある浜岡原発の危険性はとくに重視しなければならないでしょう。また、核のゴミ(=死の灰)の処理を巡る動きについても知らなければなりません。
第6に、「安全神話」をつくりあげ、国民をだましてきた政財官、マスコミ、文化人、俳優などの罪深さ。余りにこれが広範囲で用意周到であるために、これほどの事故があってもなお「原発は必要ではないか」という世論がいまだに拡大再生産されていることに注意を向けなければなりません。
そして第7に、エネルギーの今後と私たちのくらしのありかたについての展望、
第8に原発撤廃の道筋と技術的な問題・・・ざっとみただけでもこのくらいはすぐに出てきます。つまり、原発問題は目下の放射能の脅威の問題から私たちの生活のありかた、人間の存在そのものの在り方にまでかかわるきわめて重大かつ深刻なテーマをはらんでいるのです。

というわけで、ときどきはここで本の紹介もしますが、もっぱら夏期講習と読書の夏になりそうな気配。
ひどい暑さが続いていますが、ご自愛のほどを。

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バラ園はさながら「コスモス園」の様相。黄色コスモスやひまわりがたくさん咲き始めて、夏のガーデンの装いになっています。夕涼みがてらどうぞお寄り下さい。






  8月4日(木)    
8月に入ってもう4日。なかなかパソコンの前に座れないまま今日になってしまいました。
1日から2日にかけて、沖縄にいっしょに行ったHさんご夫妻が富山からやってきてくれました。かつての職場の同僚でもあり、現在は富山県の9条ファンクラブの事務局長でもある彼は、超がつくくらいの読書家でかつ歴史の専門家ですから話題にはことかかず、4人で延々と続く会話は多岐にわたり、知的な刺激に満ちてたいへん楽しいものでした。もっとも私を除く3人(ご夫妻と私の妻)はアルコールが強いので、そっちの方も楽しみのひとつであったことは間違いない。
2日目は池田町を案内し、ついでにバラ園にも立ち寄ってひとときを過ごしてきました。ちょうど熟れたプラムが沢山落ちていて、一同「おいしい」を連発しながら、いくつも拾って食べましたよ。


2日の午後は妻と竹取りと流しそうめんの舞台設定に出かけました。
3日には福島から子どもたちの一行がやってくるので、お昼に「流しそうめん」を食べてもらおうという企画があり、わが「被災地支援町民ネットワーク」がその準備にあたることになったのです。
流しそうめんといっても、数10人が対象なので、15メートルほどの長い長い流し舞台を2連作るのです。2日では結局出来上がらず、3日は8時前から集合することになりました。
というわけで、3日は早朝から麺をゆでる大釜を用意したり、そうめん台を苦労して作り上げたりと一同汗びっしょり。
それでも11時頃にはすべて完成して、大勢の子どもたち(福島+池田の小学生、それに付き添いやスタッフ約100名)が集結。カウントダウンでそうめんを流し始めました。
流れてくるそうめんを掬ったことのない子どもたちも結構いるので、最初は周りにそうめんが飛び散って大変な状況でしたが、そのうち結構慣れてきてみんな腹一杯食べていました。
私たちスタッフは準備とそうめん流しに忙しく、結局流し台に付きっきりで子どもたちの様子を眺める余裕もなく終了。それでも楽しそうにそうめんを掬っている元気な子どもたちを見ていると、やってよかったと思わずにいられませんでした。
前日まで心配された雨もきれいにあがって晴れ間ものぞく良い天気に。子どもたちは、広々としたクラフトパークで思い思いに飛び回り駆け回っていました。













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