大きな低気圧が日本沿岸を通過し、夜明け前にすでに20センチの積雪。早朝降る雪をながめていると、ここは池田なのかと思ってしまいます。
気温は2,3度。暖かい。空からは大きな牡丹雪、ふんわりと積もったでこぼこのある雪面。まるで、生まれ故郷の富山そのものです。
午前中は除雪。びしょびしょになったため、お昼頃風呂に入って、あとはしばらく何をする気力もなし。
お昼を過ぎてもずっと降り続いています。電波障害でテレビもほとんど写らず僻地になっています。こんなときデジタルはあかん。
************************安倍首相の
ホームページをのぞくと、Site Menuのトップ「基本政策」に、「外交・教育再生・憲法」へのリンクがあります。
そのリンクをたどって、まず憲法についての、
安部さんの見解(2009年)を見てみました。
そこには、なぜ憲法改正が必要と考えるかについての持論が3点にわたって展開されています。これらはあちこちで紹介されてよく知られていることですが、念のためにそのポイントを書いておくことにします。
1.(憲法の成立過程に問題)現行憲法は、連合国による占領時代にGHQのニューディーラーたちによって急ごしらえでつくられ、その草案が日本に押しつけられたものである。
2.(今日の価値観、時代の変化にそぐわない)憲法が制定されて60年が経ち、新しい価値観、課題に対応できていない。環境権、個人のプライバシー保護の権利、自衛軍保持、道州制などを書き込むべきである。
3.(憲法は自分たちの手で書くべきである)憲法は国の基本法であり、日本人自らの手で書き上げていくことで新しい時代が切り拓かれる。今日は、この「憲法成立過程」について、彼の主張を検証してみたいと思います。
結論からいえば、成立過程なるものは、史実には全く背を向けて、都合のよいところだけを切り貼りし、しかもそれらをゆがめたりねじ曲げたりして、あたかも憲法草案が当時の日本政府の意志を踏みにじって押しつけられたかのように解説したしろものです。まともに歴史を学んだ人ならあきれるか、笑い出すことは間違いない。
安倍さんの論立てについては、リンク先を見てもらうことにして、ここでは次の主張を見てみましょう。
@当時、GHQの命令で日本側は松本烝治国務大臣のもと、起草委員会が草案作りに取り組んでいた。それが毎日新聞にスクープされ、その記事、内容に激怒したマッカーサー司令官がホイットニーに憲法草案を作るように指示した。
A2月12日という短期間の期限は、リンカーンの誕生日に間に合わせるためだった。
B草案作りには憲法学者も入っておらず、国際法に通じた専門家も加わっていなかった。これらの「俗論」にもならない彼一流のデマゴギーは、憲法の成立過程を詳細に追跡した「日本国憲法を生んだ密室の九日間」(鈴木昭典 創元社 以下「九日間」と略記)によって、具体的かつ詳細に反論され尽くしています。それをもとに、憲法草案の成立前夜を調べてみることにします。
敗戦直後日本側では、憲法改正について2つの流れが存在しました。
1つは、1945年10月4日、東久邇内閣の副首相であった近衛文麿がマッカーサー最高司令官を訪問、その際にマッカーサーから指示されたこと(*)を受けて憲法改正作業を内大臣府御用係で行うことを決めます。そして11日には天皇から御用係に任命され本格的に憲法改正作業にとりかかることになります。
* マッカーサーの指示 「第1に憲法は改正を要する。改正して、自由主義的要素を十分取り入れねばならぬ。第2に、議会は反動的である。これを解散しても・・・同じタイプの人間が出てくるだろう。それを避けるためには、選挙権を拡張し婦人参政権と労働者の権利を認めることが必要だ」
矢部貞治「近衛文麿」読売新聞社もう一つの流れは、新しく首相になった幣原首相によるもの。
彼は、10月11日にマッカーサーと会見し、そこで5大指令(婦人解放、労働組合の助長、教育の自由化・民主化、秘密的弾圧機構の廃止、経済機構の民主化)を受け取ります。それをうけて彼は13日、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会を設置、内閣としても憲法改正に動き出したのです。
それ以後、年末にかけて、政党・民間団体の手で憲法改正草案が書かれたことはよく知られた事実です。それらは大きく分けて、進歩党、自由党、社会党案のように明治憲法を焼き直したり、化粧直しをしたにすぎないもの、共産党案、高野岩三郎らの憲法研究会要綱のように進歩的な内容のものと2つの流れの草案が発表されました。
GHQがその後政府だけに憲法改定作業を認めたため近衛による改正作業は挫折。一方の憲法問題調査委員会は翌1946年1月4日、いわゆる松本甲案をまとめ、7日に天皇に奏上します。
しかし、これらは全くGHQに報告されずすすめられたのでした。その理由は「あくまでこの改正というのは、自発的に自主的にやることであり、今後もアメリカの意向を伺い打ち合わせる必要はない」(1月26日、高木八尺博士の進言に対する松本大臣の回答 「九日間」)というのんきなもの。天皇の地位をいかに守るかに汲々とし明治憲法の枠組みから一歩も外に出られない彼らの意識をはっきりと示していたのです。松本案は、国内国際世論を背景とした憲法改定をめぐる事態の切迫性、GHQの明確な意志を全く理解しない(できない)姿を示したものでした。
ところが1月中旬頃になってGHQから改正案を示せという細則が入るようになりますが、「松本大臣はこれらの示唆や動きに全く動ぜすマイペースで作業をすすめる。閣議で松本案の審議が始まるのは1月29日になる」(「九日間」)という状態。そして2月1日、毎日新聞による調査委員会の第一次案(日本側は否定)のスクープへとつながっていきます。
占領軍民政局では直ちにこれを英語に翻訳するとともに、正式の草案を同日夕刻に届けさせます。それらの内容がどのようなものであったかは、それを翻訳した民政局のケーディス大佐の証言で明らかです。
A案(甲案)だったかB案(乙案)だったかわすれましたが、(明治憲法の)<天皇は神聖にして侵すべからず>の<神聖>が<至尊>に変わっていただけだったり、<天皇は陸海軍を統帥する>とあった条文が、<天皇は軍を統帥する>と変わっていた程度で、それはひどいものでした。毎日新聞がスクープした草案との間には、小さな違いはあったものの、それほど差はないことが明白でした。・・・翻訳があがった段階でホイットニー将軍に見せたところ、早急にこれを批判した報告書を出せと命令されたのです。数日後の5日に日本側との仮会談が行われるとの報告を聞いたマッカーサーは、2月1日、ホイットニー准将に対して、「松本案を拒否する詳細な回答書を作成し、その会談において日本政府に手交すること」を命じます。
2月2日には、ホイットニー准将はマッカーサーに上申書「最高司令官への覚え書き」と付属資料を提出します。次がその中で書かれた日本国憲法草案を民政局がつくることになる重要な転機を示す内容です。
私は、憲法改正案が正式に提出される前に彼らに指針を与える力が、我々の受け入れがたい案を彼らが決定してしまってそれを提出するまで待った後、新規書き直しに再出発するよう強制するよりも、戦術としてすぐれていると考えたのです。「九日間」で筆者の鈴木さんは次のように書いています。
ホイットニーにとって、松本国務大臣ら日本政府の憲法問題調査委員会の頭の固さに、ほとほと困らされた結論がこれであった。2月3日、ホイットニーは部下のケーディス大佐、ハッシー中佐、ラウエル中佐を呼んで、「最高司令官は、我々民政局に、日本国憲法の草案を書くように」というマッカーサーの命令を伝え、新憲法の骨子となる「マッカーサーノート」を文書で伝え、詳しくその解釈について説明をします。
そして12日の日本側との会談に間に合わせるために、わずか9日間で仕上げることが至上命令とされ、民政局での極秘の作業が開始したのでした。
さて、安倍さんは、この命令が民政局に伝えられたとき、まるで内輪のミーティングで、「なんでそんなに急ぐのですか?」「リンカーンの誕生日に間に合わせるようにしたいのだよ」などと茶飲み話でもしているようなやりとりがあったように描いています。
安倍さんのお話にもう少し耳を傾けてみましょう。次のリンクは、「誇りある日本人として〜今、如何に行動して、何を次世代に伝えてゆくか」〜G1サミット2011レポート〜」。安倍さんは得意満面で見てきたようにこのときの模様を話しています。
http://www.globis.jp/1920-2「九日間」では、先に紹介したように安倍さんの「お話」とは全く異なった展開が、ケーディス大佐への取材や当時のメモをもとに書かれています。
次は、ケーディス大佐の証言です。
ホイットニー将軍に、草案の締め切りについてたずねたのです。すると、今週中だと言うじゃありませんか。驚きましたね。マッカーサー元帥と将軍自身が目を通す時間が必要だというのが、その理由でした。
ホイットニー将軍はこうも言いました。来週の火曜日、12日に日本側との会議がある。日本側は松本草案を批判した覚え書きを渡されると思っているだろうが、そのときに、我々の考え方はこうだと主張する憲法草案そのものを渡したいのだと、そう言ったのです。驚きましてね。そんなに急がなくはいけないとは思っていませんでしたから。
大変な仕事だと思いましたが、とてもできないとは考えませんでした。民政局が信頼されているという誇りもありましたが、やりがいのある仕事だという緊張感がありました。ワシントンから専門家を呼ぼうという考えは全くありませんでした。ここには、リンカーンの誕生日などという話しは一切出てきてはいませんし、そもそも軍隊の中でサロンのような会話が交わされるはずもないというのが取材した鈴木さんの見方です。
安倍さんはどこでもこのようにしゃべっているのでしょうが、あらためて彼の見てきたようなウソをちょっとだけ抜粋します。
ホイットニーはこのように命じました。2月12日…、65年前の今日ですね。『2月12日までに草案をつくれ』と命じた。『もうたった4日しかないじゃないか』と、皆びっくりします。『だいたいどうして2月12日なのですか?』と聞きましたところ、ホイットニーは『私が尊敬している大統領はリンカーン大統領である』と。安倍さんの指摘するこの部分は、ケーディスその他のメンバーの証言、エラマン・メモ(運営委員会エラマン女史による詳細な会議メモ)ではどうなっているか。
(2月4日)民政局の朝鮮部を除くメンバー全員に、ホイットニー将軍の個室の隣にある会議室に集まるように命令が下りたのは午前10時であった。
・・・ホイットニー准将は10分ほどで(マッカーサーノートなどの)話しを終えると、そのまま自室に戻ってしまった。そのあとはケーディス大佐の番だった。きのう深夜までかかって作成した組織図を発表し、担当者を任命すると、仕事の進め方を説明した。このあたりはまったく軍隊の作戦命令の要領だ。
しかし、時間のなさと兵員の少なさ、武器に相当する基礎知識の欠如を考えると無謀な計画に近い。だが、不思議なことに証言者たちは、この無謀さをあまり口にしない。そんなことは言ってはおられない雰囲気だったようだ。安倍さんのお話の出所はどうやら八木秀次・高崎経済大学助教授らしく、『中央公論』平成17年2月号の特集「国家の基本条件再整備のためにー『日本』を否定した日本国憲法の問題ー」のなかで、同様のことが紹介され「日本人にとって聖なる日は、血塗られた日にされようとしていた」と書かれていたことが、あるサイトに記載されていました。これは調べてみる価値がありそうですね。
民政局では、どのようにして憲法草案を作成していくことになるか。「九日間」では、その模様が数々の証言、資料をもとに詳細に記されています。
安倍さんは「憲法の素人がにわか作りででっち上げた」と言いたいのでしょうが、事実はそれとは正反対で、誠実で真剣な作業が夜を徹して続けられたこと、さらに日本の憲法研究会要綱がいかに生かされたかなどが生き生きと描き出されているのです。
またこの中では、当時の支配層の中には、民主主義の社会システムに全く理解を欠き、人権感覚も西欧から見ると驚くほど遅れていたことが再三にわたって指摘されています。
安倍さんは、当時の支配層の無能を恥ずべきだったのであり、それに業を煮やしたGHQにあたりちらしたところで、当時の支配層と少しも変わらない自らの立ち位置をさらけ出しているだけです。
これらは、直接この本にあたっていただく他はありませんが、重要な点はこの9日間の作業には、日米開戦直後からすでに周到な戦後処理の準備が開始されていたこと、草案に生かされる考え方が国際的に成熟していたことなどが反映されているという点です。明治憲法の復権と戦前回帰をはかりたい安倍さんは、決してこのことに言及することはありません。
「外から与えられた」ことが悪いならなぜわれわれがこういう民主憲法を作り得なかったのかという問題意識が、国民の中から出てこなければならないと、当時から考えていました。
私たち日本の国民は、戦後改革の基本的な原点に絶えず立ちかえって、みずからの手でなし得なかった革命を社会的に達成していく課題を負っていると考えられます。
世界1977年6月号 憲法30年の過程と展望
憲法学者 小林直樹氏へのインタビューこの続きはまた後日。