早朝、窓を開けて寝ていれば肌寒いくらいの気温。空は雲ひとつなく清々しい青さです。
今朝は午前6時に起床、床を磨いたり片付けをしたりして撤収の準備。朝食後は、荷物をまとめていつでも出発できるようにしました。
午前8時半、すでに太陽は高く昇って、暑さが戻ってきました。これは台風前の熱気なのか。日付変更線を越えてきた台風12号が、当初は関東地方に向かうという予報だったのに、何を迷ったのかまたまた沖縄方面に向かって西進、明日には本島に近づくというのですから、いやになります。
南城市の母も心配しているでしょうから、今夕から一緒に過ごせるのでちょうどよかった。今日のうちに買い物などを済ませておくことにしましょう。
沖縄に到着した日から、私は琉球新報、沖縄タイムスの2紙をコンビニで買っては読んでおりました。読者といっしょに考える素材を豊富に提供し、事実をありのままに伝え、そして民意を尊重して県民の活動を多面的にに報道する、そうした姿勢は2紙ともに共通しています。
翁長知事の政治姿勢については、沖縄タイムスの方がより厳しい目を注いでいるような気がしました。たとえば、菅官房長官とほとんど密室に近い場で懇談を持ったことや、辺野古埋め立て承認の検証委員会報告がたったA4で2ページの概要版しかリリースされず、県が検討してからすべて公開するとしていることなどをあげて、情報提供の不透明さを指摘している点。これらはいずれも「権力を監視する」というジャーナリズムの本質からいえば当然のことでしょう。
報道機関が問題意識をどれほど鋭く持っているか、生起する事象の本質にどれほど深く迫れるか、こうしたことが今日ほど問われる時代はそうはありません。その意味で、沖縄の2紙は全国紙や地方紙の鏡となっていると私には思えます。
沖縄2紙を偏向呼ばわりする諸氏は、サンケイや読売を偏向しているとは決して言わない。なぜならサンケイ・読売と同じ価値観を持ち、それにどっぷりとつかっているからです。仮にそうであっても、異論を受け入れ、議論を深めるのなら全く問題はありません。さまざまな意見はあって当然だし、建設的な議論を通してより認識が深まるからです。
しかし、彼らはそうではない。それとは真逆に、沖縄2紙はサンケイ・読売と同様の新聞になれ、さもなくば潰せと主張しているのです。朝日や毎日も、NHKもそうなれと主張するのです。これは、戦前の報道統制時代でさえなかったことです。論調を自分たちと同じにそろえたい、批判するものは許さないとなれば、これはファシズムそのものではないのでしょうか。彼らはファシズム国家を待望しそれを主張していることになる。
重大なことは、自民党や極右の連中の中に沖縄の2紙は「反日」であり、それは中国の影響下にある人物が編集部を支配しているからだという、お笑いに近いデマをまことしやかに流す連中がいるということです。これには中国の方がたまげていることでしょう。
「ほれ見ろ、翁長知事も中国については何一つ批判しないではないか、翁長は中国の手先なのだ」というのも同じ根っこを持つ。ところが何のことはない、そういう連中が、異論をすべて排除して北朝鮮、中国と同じような言論空間にしたいというのですから、笑うほかないではありませんか。
名護から南城市に向かう途中の与那原付近でこんな宣伝物をみかけましたよ。まさに上のことを地で行くようなフレーズが並んでいますね。辺野古新基地を強力に推進するのが狙いなんですか、やっぱり。はしなくもそう書いちゃったですね、大川隆法さん。
「標的の村」には、取材する報道陣さえも機動隊が暴力的に排除する姿が映し出されています。「中国の手先」論をふりかざす連中は、沖縄の基地建設の現場で何が起こっているのかには興味も関心もないくせに、基地の建設強行を厳しく糾弾・批判する論調には極めて敏感なんですね。にっくき中国をやっつける最前線基地を作ろうというのに何を邪魔するのかという程度の低レベルの認識しか持っていない。
辺野古のゲート前の座り込みの現場には、琉球新報・沖縄タイムスの若い記者が交代で朝から夕方まで詰めていて、米軍基地の動きや県民・応援者の言動をしっかり見守っています。その目で見て、聞いて、感じたことが記事の土台になっている。しかし、「反日」を主張する連中には、これも「反日」行動にしか見えない。歴史に学び、理知的に判断することを拒否する。故に識者はウルトラ右派のこうした一連の言動を「反知性主義」と呼ぶ。
こうした沖縄2紙を「批判」する言説の震源をたどれば、おそらくおもしろいことがいろいろと見えてくるのではないかと私は推測します。たとえばこうした言動をもっぱら職業とするプロ集団が高額の資金で雇われていたり、企業が買収されていたりということだってあり得ない話ではない。
仮にそうだとしても、所詮は「虚偽・ねつ造情報」に頼り、住民からは遠い場所でそれをひねくり回すだけですから、放っておけば表面を覆い尽くす力はもっているものの、結局は「根無し草」に過ぎない。彼らの養分とするものを取り除いてしまえば、もはや生存の余地はないのです。
だが、決して彼らを侮ってはならない。耳障りのいい「しゃべり方」には極めて長けているからです。
普天間高校の生徒がゲート前で「ネットを見ると基地が必要だというような意見や沖縄に対する偏見の方がたくさん見られる」と悔しそうに話していました。まったくその通りなのです。ネットで匿名をよいことに垂れ流されるこうした言動と厳しく対決することも私たちの課題として重視していくべきでしょう。
***********************************家を貸していただいた家主さんがわざわざ玉城から名護まできてくれて、家の中をチェックしてもらい、鍵を返したあと、いろいろ情報交換をしたあと、名護をあとにしました。快く家を提供していただいたUさん、本当にありがとうございました。おかげで快適に過ごすことができました。
さて、名護から南城市に戻る途中、時間もあるので北中城城趾に行こうと思って北中城インターで高速道を降りたのはよかったのですが、ナビにはその場所が入っておらず、ウロウロしたあげく結局あきらめて、一般道を南城市に向かうことになってしまいました。先の宣伝物はその途中で撮ったものです。
玉城の実家には午後2時頃到着したのですが、驚いたことに母はもうデイサービスから帰ってちょうど昼寝し始めたところでした。いつもは午後4時過ぎなので、荷物を降ろして一休みしてからどこかへ出かけようと思っていたのです。
母はとても眠そうだったので起こすのは悪いと思い、荷物を降ろしただけで、そのまま摩文仁に向かいました。
今日向かった先は健児の塔です。これは摩文仁の丘の一角にあり、南部戦跡巡りにも入っているはずですが、到着したときは店も閉まって誰もいない。台風が接近しているので早く店じまいしたのでしょうか。もっとも、ひめゆりの塔と違って健児の塔は全くマイナーな存在ですから・・・。
私自身は3度目くらいになりますか。数年前に友人のガイドで南部戦跡巡りをしたとき以来です。
健児の塔に行く道は途中で3つに分かれていて、そのひとつは「南冥の塔」につながり、もう一つは海まで降り、もう一つは健児の塔につながっています。今日はそれら全部をたどってみました。
南冥の塔は解説の通り、この地で犠牲になった1万2千柱もの名前もわからない兵士や住民の遺骨を収集して埋葬したところです。
周囲は急な崖や石灰石の岩が不規則に壁をつくり、その間にさまざまな木がうっそうと茂っている場所。今でこそ階段が作られて歩きやすくなっていますが、今から70年前は道もない崖っぷち。しかも梅雨の雨で足下はただでさえ滑るのに、艦砲の砲弾や米軍の射撃で命を奪われた人々の死体がいたるところ無数に積み重なっているという地獄絵図だったのでしょう。ここは一人で夕方薄暗くなってから来るべきところですね。
少し戻って2本目の道をどんどん降りていくと、まもなく遠くで波が砕ける海岸に出ます。本土の海岸とは様子が全く違います。ここは珊瑚礁でできた海岸ですから、ごつごつとして尖った岩ばかりで歩けるような場所はまずありません。
ひめゆり部隊の何人かや住民たちは、それでも波に揉まれながら昼は岩にかくれ夜になると東のほうに海岸伝いに逃げていったのでしょう。そんな姿を想像することすら難しい海岸です。
そして最後は健児の塔。沖縄師範男子校の生徒は「鉄血勤皇師範隊」などという仰々しい名前をつけられて戦争にかり出され、生徒・教師あわせて319人が沖縄戦の中で死んでいるのです。
帰って、母と夕食を食べながらテレビを見ていたら、琉球朝日放送が久米島での日本軍による住民殺害についての特集を放送していました。スパイ容疑でたくさんの人が日本軍に殺されているのです。
それを見ていた母が、住民を追い出して壕に陣取った日本軍のことや、この近くでもスパイだとして殺された人がいたことを話し出しました。
「集団自決」に対する軍の関与ばかりではなく、住民虐殺という問題ももっと深く掘り下げてその実相を明らかにしなければならないと思います。戦争では、軍は決して住民の味方にはなり得ないのです。
***********************************ようやく薄暗くなった午後7時半。風は少し強くなってきましたが、雲はなく蒸し暑い。名護ではほとんど蚊はいなかったのに、こっちではさっそくたくさん蚊に食われました。
今夜から明日にかけて台風がかなり接近するというので、またまた要注意。この台風のあとは、台風のたまごも見当たらないので、長野に帰るころは本格的な夏空が広がっていそうですね。