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  6月30日(木)
毎日新聞が昨日の夕刊で「数学ブーム、なぜ続く 囲碁、将棋に匹敵する知的遊び IT、金融企業に需要」という特集を載せていました。
それによると「ブーム」から7年を経てもなお勢いは衰えていないのだそう。これは首都圏だけなのかもしれませんけれど、「大人のための数学教室」が盛況なのだと書いてありました。数学パズルではなくて、結構本格的な理論を求めているとも。
そういえば、ブームが話題になり出した頃(2011年)にNHKが「クローズアップ現代」で「大人がハマる”数学ブーム”」を放映したようで、その解説では「混迷する不安定な社会にあって、確かなものに接したいという願いと、想定外の事態でも進むべき道を切り開ける強さを身につけたいというニーズがある」と分析していました。それがいまだに続いているということでしょうか。
田舎にいると、とてもそんな「ブーム」があるとも思えませんので、今日「子どもじゅく」に出掛ける前に松本の丸善に行って数学の啓蒙書などがどこに置いてあるのか聞いてみた。
すると係の人が検索してみてくれたが、「平積み」になっている気配もなく、どうもそれらしいものはみつからない。結局理工学書の棚に案内されてしまいました。
多分これだろうなと見当をつけて入手してきたのが、「オイラーの贈物」(吉田武 東海大学出版会)と「ガロアに出会う はじめてのガロア理論」(のんびり数学研究会 数学書房)の2冊。
「オイラーの贈物」は解析学の初心者向けの本で、「博士の愛した数式」の一つ(だったと記憶しているのですが・・・)である、

のもともとの式、つまりオイラーの公式、

の理解をめざすことが目標となっています。
今日は「子どもじゅく」がスタッフ過剰でヒマだったので、質問の合間に「オイラーの贈物」をつらつら眺めていました。大学の数学科では初年度に学ぶような内容なので、公式自体はなじみのものなのでが、この公式のi、e、πの結合した美しさは神秘的でさえあり、数学者でなくてもこの公式に引きつけられるのはごくごく自然なものでしょう。
「e(自然対数の底=ネイピア数)、i(虚数単位)、π(円周率)、1(乗法の単位元)、0(加法の単位元)という数学上欠かすことのできない5つの数が、このような単純な形の式で構造化されている」として、この公式を巡るさまざまな考察がネット上でもあふれています。それほどに興味を引いてやまない公式なのです。
これに至るまでには、高校で学ぶ微積分や三角関数の知識、複素数の知識などが必要で、理論を少しずつ積み重ねていくのですが、それほど専門的な知識を必要としないことと、険しい山道を登っていくとついには目を疑うばかりの美しいお花畑に出るという感じに似ているために、もう一度数学をと言う人には格好の素材になっているのかもしれません。
別に混迷する社会において確かなものをつかみたいという訳ではありませんが、もう一度の復習と周辺の事柄の学び直しという意味で、私も読んでみようかなと思った次第。だれか一緒に勉強しませんかね。



  6月29日(水)
沖縄での米兵による犯罪被害はこれ以上出したくない、県民大会なんて「もう最後にしたい」という思いが口々に語られた6月19日の沖縄県での県民大会。
果たして「最後にする」ということはどのようなことなのか、飲酒・外出禁止令が緩和された米兵が町に出て仮にまた同様の事件を起こしたら沖縄県民は何をすればいいのか、本土の人たちは「ああ、またか」とただ嘆息をつくだけでいいのか・・・ある意味では沖縄県民の無力感、政府と本土側への不信感は極限まで達していると私には思えます。
沖縄にも様々な意見があり、行動がある。しかしとりわけ女性に対する性被害と命の危険を根絶するために何をすればいいのかという点では広く合意ができつつある。第1は、あまりにも理不尽な日米地位協定を根本的に改定することです。第2は、米海兵隊の縮小・撤退、そして第3は辺野古新基地建設をやめさせることです。
そう要求することを「政治的」といい、単に「追悼」のみを要求する勢力は、いつまでも現在の状態を固定化することを認める立場であることをはしなくも露呈していると言わざるを得ません。
伊江島で乗ったタクシーの運転手が信じていたように、キャンプシュワブ前に集まっているのは「日当をもらったプロ市民」であるとか「本土の活動家」だというデマをまだ信じ込まされている人が沖縄でも少しはいることは事実でしょう。しかし、そのようなデマを流しているものこそ、現地に行ったこともない「本土」の右翼的「活動家」であり「プロ市民」なのではないでしょうかね。匿名でそうすることに日夜励んでいる人間が大勢いるという異様さもまたこの国の一面の真実です。これは何日もキャンプシュワブ前や高江に通った経験を通しての実感です。
三上知恵さんは「連載コラム第52回」で次のように書いていることに激しく共感する。

現場に来ることもない誹謗中傷に反論する気もないが、『童神』に涙し『月桃』が歌える群衆が沖縄県民でなければ何なのか。もう、政府や本土へのアピールという目的なら県民大会は虚しいのかもしれない。気持ちを示したら考えてくれるだろう、なんて考えは捨てたほうがいい。

言うまでもないことだが、三上さんはこのような集会を否定しているわけでは決してない。むしろ「彼女が受けた最期の苦しみを引き受けて、彼女が生きた証を沖縄の苦難の歴史の大転換点にできるかどうか」をかけた「現状を打ち破るためのスタート地点」なのだと述べている。そのことの意味を深く深く胸に抱きしめる必要があると思いながら私は彼女のコラムを読んでいました。

三上さんが紹介している動画は映像も美しく、県民大会のエッセンスを端的にまとめてくれている秀作です。


この前は、集会の最後で歌われた「月桃」を紹介しましたが、冒頭に古謝美佐子さんが歌った「童神」を、三上さんの「翻訳」を読みながら聞いて、被害に遭い若い命を断たれてしまった女性とその家族に思いを寄せたい。「母の祈り込め永遠の花咲か」すはずだった1人の未来あるいのちだった・・・。
この歌詞の中には「風(かじ)かたかなとてぃ 産子(なしぐゎ)花咲かさ」という印象的な一節がでてきますが、県民大会に集まった大人たちには「『風かたか(風よけ)』になれなかった」という「胸張り裂ける」思いが充満していたはずです。本土の私たちはその悔しさや悲しさを共有できるのだろうか。





  6月28日(火)
このところの雨で畑の草の茂るのが速いこと。ついこの前きれいにしたと思ったらもう一面の雑草の茂みです。
夏野菜の手入れを怠っていたために、キュウリが地這いになってしまい、まあいいかとそのままにしておくことにしました。トマトはそういうわけにいかないので、脇芽を取って支柱にくくりつけ、ゴーヤもネットを張って多少は手入れをした気分になりました。
キュウリやトマト、ナスなどの夏野菜が少しずつとれて、食卓を飾っています。インゲンが出来すぎてバケツ一杯になってしまった。キュウリも時期が来るとそうなるので、とにかく小さい内にとって食べてしまわないと収拾がつかなくなってしまいます。
参議院選挙に向けたいろんなとりくみがあるとはいえ、こまめに手入れをして時機を失わないようにしないといけないのが辛いところ。

我が家の庭では、しばらく放置してあったラズベリーが今年は結構実をつけて、これまで3,4回まとめて収穫しました。そのたびにジャムにするのですが、ラズベリーはヨーグルトかチーズケーキぐらいにしか合わないので、これまでは作ってもあまり口に入れることがなかった。
とはいえ、プレゼントすると喜ぶ人もいるので、今日はラズベリーとブルーベリーのジャム製造にしばし時間を費やしました。ジャム作りは私の仕事。簡単なのはブルーベリージャムです。これは15分くらいで完成。ラズベリーは30分くらいかな。むしろ容れ物を煮沸するほうに手間がかかるほど。なべについた残りを指ですくってなめるとなかなかうまい。ちょっと「おしゃれ」な安曇野暮らし的時間を楽しむときに使うことにしましょう。

昨日のしんぶん赤旗紙上で、神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんが、野党共闘の意味について語っているのが目にとまりました。その主張の要は「野党共闘は『反対者とともに統治する』という民主主義の基本を実践するもの」であるという点で、政治的立場の異なる政党が限定的な政策の一致を足場にして一時的な共闘関係を持つことは民主主義の最もすぐれた点なのだと強調していたのです。
これを否定する自民党は「はしなくも政治の理想を『全国民があらゆる政策で一致している状態』だと考えていることを露呈」していおり、事実、「安保法制に自民党内から反対者が1人も出なかった事実が明らかにしている」ではないかとも。
朝ドラの「とと姉ちゃん」が太平洋戦争に突入していく時期を背景に、さまざまな統制や徴兵などで家族が苦境に立たされていく過程を描いていますが、アベ首相が描いているのはその時期と変わらない「一億総統制」の体制ではないかとさえ思えます。そうでなければあのような自民党改憲草案など作れるはずもないからです。
プロパガンダの専門家を集めて、気に入ったキャッチコピーをいくら作りあげようが、アベノミクスの「成果」をいかに誇ろうが、今日の生活と労働の現状は空疎な宣伝文句との乖離をいよいよ広げてきていますから、あとは有権者の多くがそれに気がつくかどうか。多くの人々に届く訴えを私たちができるのかどうか、ですね。



  6月27日(月)
先日の軽トラパレードの素敵な映像がYoutubeにアップされていました。撮影スポットで待ち構えてくれていた長野勝手連の撮影隊のみなさま、紹介してくれたツイッター係のKさん、ありがとうございました。
こうしてみると、なかなかのものですね。まわりにだ〜〜れもいないのは、そんなところを選んで全車整列をするためなので、この場所以外は当然町中を走っていたのですよ。くれぐれもお間違いのないように。


昨日は、バラの会への助成金を申請するためのプレゼンに会員とともに出掛けておりました。公益財団法人長野県長寿社会開発センターが実施する「いきいき中高年社会貢献活動支援事業」への助成金があると聞き、バラ園のいっそうの充実を期して申請したのでした。
結構詳細な申請書類を前もって作成し、昨日も10分間のプレゼン、15分間の質問というきっちりした審査を受けなければなりませんでした。松本会場でのプレゼンには6団体(初申請が半分ほど)が参加、それぞれパワーポイントなどを使って思い思いのアピールをしていました。
我がバラの会はすでに6年間の活動実績を持っているために、他団体とはひと味違った活動途中での申請ですので、審査員もその点はよく理解してくれたようで、何とかなるのではないかという感触を得て帰ってきました。うまくいくといいのですが。

プレゼンは何とかなったのですが、昨日朝から私の体調に異変が。首の右横と左手首の表面にひりひりとした異様な痛みが続いて、痛み止めを飲んでも効かない。妻に見せると「帯状疱疹」の疑いがあるという。過去にそんな病気になったことはないのでそうなのかどうかは全くわからないままプレゼンを終えて、帰ってから別の痛み止めを飲んだら少し楽になった。
治らないようなら明日は医者に行こうと一晩経過を見ることにしました。すると今朝方は、かなり改善されて手首は痛みはとれ、首は少し症状が残っているだけという状態に。
どうも、かつてピリン系の薬で薬疹がでたような症状に似ている。しかし、薬を飲んだ覚えはないし、何か変なものに触った記憶もない。突然の異変に首を傾げるばかりでした。年をとると本当に予想もしないようなことが起こりますね。
そういえば、今朝の民放で寂聴さんへの長時間インタビューを今日やっていましたが、その中で寂聴さんは自身の生死をさまよう体験をもとに、「以前は死んでから行くなら地獄の方が変化があって面白いと思っていたけれど、病気になってのひどい痛みを思えば、今はまっすぐ極楽へ行きたい」と語っていましたっけ。
神経にさわる痛みというのは人間にとっては絶えられないほどのもの。10数年前に亡くなった弟も、ガンの痛みだけは回避するのだといってモルヒネパッチをつけていたことを思い出します。
そういえば、先日抜いた歯の状態を見せに医者に行ったところ、歯科衛生士がこれ以上無いくらいに丁寧に歯茎をチェックしてくれて、「ずいぶん歯茎が引き締まっていますね。このままブラッシングを続けてくださいね」とやさしい言葉をかけてくれました。もう物を噛んだときの痛みはごめんだし、これ以上歯を抜くわけにはいきませんから、あれ以来10分間歯磨きを朝晩続けているのです。これだけはずっと続けることにしましょう。やりゃあ、できるんだ。



  6月24日(金)
イギリスのEUからの離脱をめぐって、テレビ各局はかなり過熱した報道を流していました。日本政府は、経済にどのように波及するのかが関心事であって、EUの統合の理念だとか離脱の背景だとかということはさして問題にはならないのでしょうか。
イギリスの離脱は、現在それに投じた人の思惑を超えて、さまざまな否定的な影響を与えることになるのでしょう。メディアも指摘しているとおり、難民問題をめぐってEU諸国での「分離主義」の潮流を勇気づけることにつながりかねないし、イギリスにとっても政治的・経済的な痛手を被って、離脱派諸勢力の分裂ということにもなりかねない。

思うのは、たとえ離脱であろうと残留であろうと、その1票を投じた人たちには、たとえ1/10,000,000であろうとそれなりの責任があるということ。こんな筈ではなかったというのは言い訳にしかなりません。犠牲をひきうける覚悟というものを見せてほしいものです。

日本でも、自民党に投票するにしろ共産党に投票するにしろ、やはりそれだけの責任が生じる。それが主権者というものです。
改憲のかの字も表に出さない自民党が、仮に与党として2/3以上の議席を得て改憲に乗り出した場合に、「そんな筈ではなかった」というのも同じことでしょう。すでにネット討論では安倍首相は改憲に言及しているのだし、すでに草案も持っている。
有権者は、改憲の後にくるものまで想像力を巡らせて、そのことに責任を引き受けなければならないということです。憲法学者を含めてこれほどさまざまな場で危険性が指摘されているのですから、「想定外」などというのは論外と知るべきです。

ところで、共同通信の選挙序盤の世論調査で「改憲勢力が2/3をうかがう」というデータがでましたね。産経新聞でさえ「改憲勢力」という指標で共同通信の調査を載せているのです。
さて、そのサンケイ、沖縄の県民大会の成功がよほどしゃくにさわったのか、「事件を政治利用している」という極めて「政治的な」キャンペーンを張っています。
曰く、「革新にのみこまれた翁長氏 ついに『海兵隊撤退』言及」「会場外では『事件を政治利用するな』との批判も根強い。自民党、公明党の議員や、県内11市のうち9市長は参加しておらず、どこまで“オール沖縄”の民意なのか、といった声も上がっている」「一方、会場の外では、大会を冷めた目で見る県民も少なくない」などというもの。
たとえば法要という場であれば、「政治色」などという言葉すら無意味になるでしょう。県民大会は追悼だけではなく米軍への抗議の意思表示の場なのであって、サンケイはあえてそれらを混同して大会が「革新色で塗り固められた」と異議を唱えているのです。サンケイはどんな「抗議」の場を想定していたというのでしょうか。あれこれの殺人事件などと同列にして加害者への抗議をしてみせて、あとは法要とお参りだけの集会にしたかったのか。
6月19日に県民が示したのは、事件への怒りだけではなく、沖縄で繰り返される事件の背後にある苦しみの根源、治外法権の「米軍基地」をそれを可能にしている日米地位協定への激しい抗議なのです。
「政治利用」というレッテルを貼ることで、逆に特定の政治的立場に流し込もうとするのはサンケイのお得意の手法だとしても、単なるサンケイ流プロパガンダにすぎません。
こうした「言論」が堂々と電波やウエブ上に現れて、マスメディアではあまり批判の対象にもならないのは異様という他ないではありませんかね。


  6月23日(木)
たとえば深紅の薔薇を見れて、ある人は大事な人との懐かしい日々を思い出すかもしれないし、家族そろって過ごした1日を追想するかもしれません。よみがえるものは、あるいは悲しく辛い出来事であるかもしれません。それがタンポポであっても、野菊であっても、百合の花であっても同じです。
その花が歌い込まれた歌や曲であればなおのこと、そうした日々がフラッシュバックしてしまう経験を誰もが持っているのではないでしょうか。

沖縄には、私の好きな花の歌がたくさんあります。20代の私がはじめて沖縄に行ったときに聞いた「ユウナの花」はなぜか強烈な印象を私に残したのでした。これを聞くとその頃のことを思い出してしまいます。昨年7月に沖縄に行ったとき北部では沢山見ましたっけ。それにしてもなぜこんなに悲しいメロディーなのでしょうね。


6月23日の「慰霊の日」とその前後には「月桃の花」ーーー沖縄戦で家族を失った悲しみや生まれ育った土地を奪われた悲嘆、死者への祈りなどをまるごと包み込み、花に寄せて故郷沖縄を歌ったものが海勢頭(うみせど)豊作詞作曲の「月桃の花」です。
名前だけは知っていたのに、不覚にも今の今まで歌そのものを聞いたことがなかった。19日の県民大会のエンディングの歌と聞いて、Youtubeを検索して聞きました。
これは映画「GAMA−月桃の花」の主題歌だそうで、単調なメロディーで歌いやすく聞きやすい童謡風とでもいえる曲。しかし、歌詞は慈愛と祈りにみちて深く重い。それゆえ、かつて紹介した「エンドウの花」よりももっと沖縄県民に愛されている歌なのだろうと思われました。
「月桃」とは、4月から7月の主に梅雨の頃に咲くランのような花です。実は「ショウガ科ハナミョウガ属の多年草」、この葉に包んだ餅菓子は香りがよくてとてもおいしい。沖縄の人たちにとって県内各地に自生するこの花は、沖縄戦の記憶と重なる祈りの花でもあるのです。慰霊の日に合わせて学校や行事などでよく歌われるのだそうです。

まず歌詞を追いながら子どもたちの歌で聴いてみましょうか。


続いて、この歌をつくった海勢頭さん自身のメッセージと歌で聞いてみたい。


最後は「大城友弥/国吉なおみw-ithコンサートin石垣」(2010年)から。聞いているうちに涙がこぼれてきます。





  6月22日(水)
午後7時からのNHK「各党首に聞く」を辛抱強く聞いていました。安倍首相へのインタビューの何と長いこと。
議席数に応じてというつもりか、政権政党だからということなのか、NHKなりの理由はあるのでしょうが、その後の各党首への質問を聞いていても、出てくる言葉は「アベチャンネル」。
多少の時間差があるのはやむを得ないとしても、ニュースではなくきちんと枠をとって時間も視聴者に知らせてやるべきでしょうに。
そのアベ首相の発言の中で、共産党が共産党がという言葉が何度も出てきました。「民進党の候補者の支援活動をしているのは共産党」「理念も政策も違う政党が共闘など無責任」「共産党は自衛隊は違憲だと言っている。平和安保法制を廃止というのは日米同盟を破壊するもので無責任」というレッテル張りばかり。志位さんが聞いたら激怒しそうな暴言で、よく知らない人が聞けばそうかと思ってしまうかもしれません。このような「反共」一辺倒のやり方は今日の自民党お得意のやり方なのかもしれませんが、首相とも思えない軽薄さだけが浮き彫りになったようなインタビュー番組でした。

さて、私はMNEMOさんと異なって「党派性」は極めて明瞭。それ故に、意見の異なる方々との交流や共同の活動をことのほか大事にしたいと思うのです。その根幹にあるのが人間としての信頼関係です。
たとえば私が見る限り、先日の軽トラパレードで運転手を務めてくれた池田町の参加者のうち過半数は、いわゆる無党派の人たちです。
いろんな立場の人たちが、戦争法をやめさせる、統一候補の勝利を願うという一点で「共闘」する。意見が異なるから共闘できるのです。その際に、どれだけ運営が民主的であり、1人1人の意見が尊重されるかが大事になります。
自民党と公明党は理念も政策も一致しているのでしょうか。そんな筈はありませんね。選挙になると事実を隠して都合のよいことだけを並べ立てる、それが際立っているのが今日の自民党ではないのでしょうか。

昨日の信濃毎日新聞「お金の量400兆円超える、日銀 GDP4倍の米国と同水準に」という記事がホンの小さい目立たない書き方で載っていました。日銀が「異次元の金融緩和」と銘打ってジャブジャブお札を印刷しては市中に流していたもので「世の中に出回るお金と金融機関が日銀に預ける当座預金の合計」(日銀300兆円、市中100兆円)だそうすが、いったいこのお金はどこにあるのでしょうか。
ネットの書き込みをみると「少なくともオレの所には来ていない」というのがものすごく多い。全く同感ですね。
実はこのことはものすごく大変なことだと私には思えます。大混乱の予感。当然恐ろしいインフレが襲ってきてもおかしくない水準ですが、とりあえず日銀が抱え込んでいるためにそれは起こっていません。
事実何人かのエコノミストは「将来的に円が国際的な信認を失うような事態に陥った場合、過剰なマネーが引き金となって円安や物価上昇が急激に進むリスクを懸念」しているとも報じられています。一方で消費は落ち込み、企業は融資をうけて設備投資する力にも欠けているのでデフレの再燃かというあべこべの予測さえ出ている始末。さて、日本経済はアベさんが胸を張るほどに良好なのでしょうか。エコノミストの「異常事態」という感覚の方がまともだと私には思えるのですが。

さて、「党派性」に話を戻しましょう。繰り返しになりますが、私の言う「党派性」とは決して「共産党の理念や政策を支持し行動する」というだけものではありません。私自身は、この世の未来につながるあらゆる豊かさを求めれば、必然的にそうならざるを得ないというものがそれなのだと考えているのです。日本共産党支持はその一つの現れに過ぎない。
このブログでは、いつも政治的なことばかり書いているので、あまりそのことに触れることはありませんでしたね。私の場合は、MNEMOさんがその立場から原理的に無党派であるというのと同じように、政治的には党派制を帯びざるを得ないということなのです。そんな立場もあっていいんじゃないですかね。

MNEMOさんの記事でおもしろいのは、「党首の皆さんの『手』で『流石は党首』と思えた人は皆無だった。字のことです」という下り。今日の党首インタビューを見ていてもそうだった。
そりゃまあ、期待する方が無理なのでは?私も「本当にこだわる方」ではありますが、志位さんも含めて、教養がにじみ出るような字を書いてくれるなんて期待しないなあ。第一、アベさんだって若い頃は受験勉強で書を学ぶなどという時間はなかったんじゃないの。「日本の伝統を守る」という方々に限って「へた字」なのではないかと私は勘ぐっております。
私自身振り返れば、「美しい字」に本当に憧れつづけてきました。若い頃、ホンの一時期絵を習っていた有名な画伯がいて、その方が素晴らしい字を書いた。心を打つような書をどこでどのように身につけたのでしょうか。その人の人柄そのものの字というのはあるんですね。
字は「書く」ものではなくて「打つ」ものだという時代、書くことがパフォーマンスにしかならない時代。そのうち書道ロボットなんてのが出てくるんでしょうかね。ロボットに書を習う・・・なんてね。外国人が来ると「日本には書道というものがある」とばかり体験させる番組があったりする。私は思わず吹き出してしまいます。何か大きな勘違いをしているんじゃないかなあ。
ゆくゆくは、この国が生み出した「かな」の美しさも含めて、鑑賞する力さえ失ってしまうのでは??



  6月21日(火)
ちょっと疲れが出てきたのか、外で草取りの仕事をして家にはいるとすぐに眠気に襲われ、なかなか起き上がれない。結局夜までぐーたらぐーたらして過ごしてしまいました。
夜に入って、サボっていた「町民の会」のホームページの更新を行いました。これから選挙戦に入るためにウエブ上でも制限があり、候補者の支持を訴えるようなサイトにはできません。とりあえず19日の軽トラパレードの報告だけを主に写真を中心につくってアップしました。
戦争法に反対する池田町民の会 ホームページ
ツイッターなどの書き込みを見ると、昨年ほどではありませんが全国的にかなり関心を持たれており、「軽トラが欲しくなった」などというものまで。
東京のMNEMOさんからは、昨日のブログで「ヨーロッパなどではコンボイ・パレードが時々行われますが、軽トラによるデモというのは実に日本らしい、日本の田舎らしい」とコメントしていただきました。その通りですね。
池田町に来て、割と早く軽トラを農作業用に購入して私の愛車としているのですが、遠出は無理としても白馬、松本あたりまで行くにはまことに便利。荷物は載せられるし小回りは利くし4駆だし頑丈だし。まわりの農家をみれば、「一家に一台」ですもんね。これがなかったら農作業は全くと言っていいほど回らない。軽トラさまさまです。

今日の新聞折り込みに「この道を。力強く、前へ。自民党」というチラシが入りました。多分全国の家庭に一斉に入れたのでしょうね。曰く「国民総所得36兆円増加、就業者数110万人増加、若者の就職率過去最高、給与3年連続で2%水準の賃上げ、企業収益過去最高・・・・」という調子。
すごいですね。これを見ると、サミットでのアベさんの「リーマンショック」発言は一体何だったのかと思います。世界はひどいが日本は力強く前に進んでいるとでも言うのでしょうか。それなら何故消費税増税を2年半も先送りしたのですかね。個人消費が2年連続で前年比マイナスなんですけど。
このチラシでは、「さあ、一億総活躍社会へ!」と言うだけで、「改憲」のかの字も出てこない。ひどいもんです。
昨日あたりから、昨年埼玉県深谷市で起きた一家3人の車での入水自殺(車を運転した娘だけが生き残った)の初公判の模様を詳しく伝えていましたが、事情を知るにつれていたたまれない気持ちになります。誰にでも起こりうることですし、死ぬ前に助けを求めることはできたはずだと簡単に言い切れないところにこの事件の深刻さがあります。
この日本社会は、貧困の連鎖、新しい貧困の発生によって、介護難民どころか介護崩壊が起きているのです。誰がこんな社会を作ってきたのか。政治の貧困の原因はどこにあるのか。そのことを考えれば、自民党のこのチラシに書いてあることの虚ろさは明々白々です。
「一億総活躍」??この社会の底辺のどこを切っても輝く未来への見通しなんて、つゆほどもにじみ出ては来ない。沖縄のおの字も、原発のげの字も書いていないこのチラシの文言はただ白々しいだけ。
アベさんはアクセルを踏んでエンジンを全開すると息巻いていました。アベノミクスの失敗で崖っぷちに来ているのに、そこでエンジンを吹かしたらどうなるのか。多分とんでもない破局がやって来るのでしょうね。そうならないように選挙で一票を投じるしかない。



  6月20日(月)
天候の変化が半日ずれてくれたらと思うことがしばしば。昨日も全くその通りでした。
天気予報では晴れから曇りだったのに、午後からパラパラと小雨が降り始め午後遅くにはカサ無しでは身体が濡れるほどに降ってきてくれました。
長い間準備してきた「大北地域軽トラパレード」が、小雨にもかかわらず100台きっちりと集まって大成功、野党統一候補の杉尾さんも忙しい合間をぬって駆けつけてくれて、出発集会も気合いと熱気のあふれるものとなりました。
大体、軽トラで平和パレードをやるという発想は「田舎」でしかあり得ない。町を走っている車の半分ほどは軽トラではないかと思うほどですが、いざデコレーションを施し、のぼり旗をたてて隊列を組んで並ぶと実に壮観。いやいや何ともカッコいいのです。
この日、池田町に集結したのは、軽トラだけで池田町31台、安曇野市6台、茅野市1台、社民党1台の計39台。その他に宣伝カー2台、飯山市からの軽バンが1台の総計42台でした。
池田町役場前で受付を済ませてのぼり旗などをくくりつけ、準備ができた車から大町文化会館駐車場へ。その頃はかなり雨が降っていたので、集会はサンアルプス大町の会議室で行いました。
狭い部屋は超満員となり廊下からのぞいて集会の進行を見守る人も多く、150人ほどの参加者は直ぐ近くで候補者の顔を見ることができて強い一体感であふれる集会となりました。どんな集会だったかを紹介したのは私の見る限り朝日新聞くらいでしょうか。たくさん記者が来ていたのに、選挙がらみとなるとなかなか記事にはできないらしい。信濃毎日もせめて朝日中南信版くらいの記事は載せて欲しかったですね。それとも明日以降なのかな。杉尾さんのお話は朝日の記事でごらんください。もちろんこの日の集会は、同時刻に沖縄で開かれていた県民大会とも連帯した集会でした。

軽トラでのパレード中、唯一全車が一列で整列する場所が途中の田舎道であり、その場で小休止。降りてはるか彼方まで続く車列を降りて眺める人たち、きっと「やったぜ」という実感が味わえたのではないでしょうか。最後尾から見ていると、先頭がかすんで見えません。
YouTubeでは映像作家の湯本さんによる動画がアップされていました。湯本さんは信州市民連合のIさんといっしょに松川から大町へいらっしゃったようでした。集会での杉尾さんのあいさつや、パレードのところどころが短く的確にまとめられていました。


私は最後尾でみんなの無事の出発を見届ける役割だったので、勢い写真もぜんぶ後ろから。今後、あちこちから写真を集めて「町民の会」のホームページにアップしたいと思っています。とりあえず、私の撮った写真だけ紹介しておきましょう。










この日、沖縄では元米兵による女性殺害遺棄事件に抗議し、米海兵隊の撤退を求める県民大会が開かれましたね。「悲しみと怒り」と書けば実に月並みですが、そんな言葉すら突き抜けてしまった感のある沖縄の憤怒にみちた県民大会。
昨年私が音楽祭の会場で出会った大学4年生の玉城愛さんは次のように訴えています。全文はこちらです。

安倍晋三さん。日本本土にお住まいのみなさん。今回の事件の「第二の加害者」は、あなたたちです。しっかり、沖縄に向き合っていただけませんか。
いつまで私たち沖縄県民は、ばかにされるのでしょうか。パトカーを増やして護身術を学べば、私たちの命は安全になるのか。ばかにしないでください。


安倍首相だけではなく、「本土」の私を含む人間は「第2の加害者」だと告発する。これほどまでに追い詰められていることを、「本土」の私たちは考えたことがあるだろうか。彼女はさらに次のように続けます。

私の幸せな生活は、県民一人一人の幸せにつながる、県民みんなの幸せが私の幸せである沖縄の社会。私は、家族や私のことを大切にしてくれる方たちと一緒に今生きてはいるのですが、全く幸せではありません。
同じ世代の女性の命が奪われる。もしかしたら、私だったかもしれない。私の友人だったかもしれない。信頼している社会に裏切られる。何かわからないものが私をつぶそうとしている感覚は、絶対に忘れません。


「もしかしたら私だったかもしれない」というこのフレーズは、沖縄の女性なら誰しも感じることです。沖縄タイムスは19日、次のような意見広告を載せました。こんな広告を載せなければならない沖縄とはいったいどのような場所なのでしょうか


右は被害者のお父さんから集会に寄せられたメッセージ。「米軍人・軍属による事件、事故が多い中、私の娘も被害者の一人となりました」という書き出しが胸を締め付けます。

さて、この集会をめぐって、公明党は独自に1500人の集会を行ったと報じられています。その中で、党県本の金城勉幹事長は「19日の県民大会の主催者に超党派での開催を申し入れたがかなわなかったと説明し『残念ながら協議の場もないまま開催となった』」と書かれていました。
このまま読むと主催者の「オール沖縄会議」の側が出席を拒否したかのように見えますね。自民党も公明党もそうですが、「政治色」抜きの単なる「追悼集会」にするなら出席する、そのための協議の場を設けよという要請をしたが受け入れられなかったというのが実際のところです。朝日新聞はこの間の事情について6月11日の紙面で経過を書いています。
自公の態度をみると、この事件が選挙に結びつかないように、とにかく争点隠しをしたいという本音がよく現れています。アメリカの顔色をうかがいながら、このような悲惨な事件が起こっても何にも手を打つことができな自公政権では、沖縄県民はいつまでも救われません。翁長知事のあいさつを全文しっかり読んで頭の中身を入れ替えてほしいものです。



  6月15日(水)
天気予報によれば、今度の木曜・金曜は曇りから雨で、日曜日19日は何とか晴れ間が出そうだということ。雨の中の軽トラパレードじゃ士気が上がりませんからね。カラッと晴れてくれることを期待しましょう。
雨のにおいがしてきているので、今日は午後からタマネギとニンニクを収穫しました。どうも今年のタマネギはほとんどがトウが立ってよろしくない。ニンニクも赤さび病にやられて光合成できなくなってしまった。果たして食味はどうでしょうか。
半月ほど前から新玉ネギを食べていますが、やわらかくて実にうまい。これから秋にかけての保存食になりますから貴重です。
ようやく庭のトマトやキュウリが大きくなり、キュウリの方から先に収穫できそう。いよいよ夏野菜の季節にさしかかりました。その分手入れも結構必要ですから、こまめに畑に行かないといけません。

桝添さんの辞任劇を見ていると、どうしても前池田町長の辞任から再出馬の動き、さらに退職金の全額受け取りという推移を思い出さざるを得ませんでした。バラ祭りでも何かの弾みに、「あの町長、全国区になっちゃったね」などという話が出てくる。
桝添さんは自らの疑惑について、以前語っていたように「政治資金の使途については何ら問題がない。なぜそれが問われなければならないのか、私は粉骨砕身都民のために働いているんだ。ホテルでもトップが二流じゃ恥ずかしいでしょ」という認識でしかない。どれほど庶民の感覚とずれているのかについては視野の外だったのです。そもそも政治資金の出所がどこなのか、突き詰めればかつて所属していた「新党改革」時代の政党助成金が原資になっているという疑惑も指摘されているとおり(こちらも)、とにかく自分が関係していることはすべて政治活動、それも一流の活動だと思い込んでいらっしゃるのだから始末に負えない。
我が町の件の前町長も、飲酒運転でつかまって辞職せざるを得なくなって、その直後の町長選挙にまた出ると言い始めてひんしゅくを買うという情けない一幕がありました。
要するに、飲酒運転と町政運営とは別物で、まだ町政も道半ばだからオレがやる以外にないのだという独りよがり。だから、1200万円余の退職金も3年余りの自らの町政に対する寄与への報酬だという認識になる。
つまり、多少は批判を受けることもしたが、大きく間違っているわけではないという町民の常識から全く遊離した感覚。これが全国放送のニュースで流されるという全く不名誉なおまけがついてしまいました。「オレがオレが」のなれの果て。
第1期はともかく、第2期にはもうすでにこの方の行状はよく知られており、いつ飲酒事故を起こしてもおかしくないことは町の職員ならほとんど知っていたはず。町民の多くもそうでした。しかし、それはあくまで私生活のことであって干渉はできないという「寛容」な態度が結局は最悪の結果を招いてしまったのではないのか。
つまり、本人の責任はもちろんですが、最悪の事態の前に、どのような人物なのかを冷静に判断し、人物と政策に基づいて首長を選び出すという政治リテラシー(情報収集・判断能力)がこの町には欠けている。決定的に不足していると私には思えます。それを回復できるのかどうか、それこそこの町の一番の課題だと私には思えて仕方がありません。



  6月14日(火)
6月11日の信濃毎日新聞に、糸静線での地震発生に関する重要な記事が載りました。政府の地震調査委員会が発表した「全国地震動予測地図」2016年版をもとにした記事ですが、その中で明科から茅野に至る「中北部」の危険度がとくに上昇しているという看過できないこわ〜い予測が書いてありました。
何故か2014年版と比べて糸静線中北部だけが極端に危険度(30年以内にM6弱以上の地震が起こる確率)が上昇しているのです。これは2014年版と比べての話で、全国的には南海トラフなどプレート境界型の地震確率は依然高い確率となっています。静岡市、高知市などは70%前後ですから、いつ起こってもおかしくないような確率です。関東でも千葉が85%、横浜市、水戸市が81%とこれまた恐ろしいほどの確率。「確率が低いからといって安心はできない」と釘を刺すことも忘れていない。
これらのデータはネット上に公開されていますが、いつでも見られるように以下にファイルを置いておきました。

1.「全国地震動予測地図2016年版」の説明
2.「全国地震動予測地図2016年版」の概要
3.全国地震動予測地図2016 年版
4.震源断層を特定した地震動予測地図
5.全国地震動予測地図2016 年版 付録1 補足解説
6.付録2 地震動予測地図を見てみよう

このなかで、一般向けに概要を簡単に説明してくれているのが最後の付録2。まずこれを見てから、概要について見てみると良いかもしれません。糸静線については、4の断層を特定した予測地図がくわしく載っており、私の住んでいる池田町などは明科とともに高確率となっています。これはもう一刻の猶予もならず、地震に対する備えをしておくことが求められますね。
同時に、地域や行政もまた具体的・実践的な対応策を十分に練っておくことが必要。とくに農村部、山村部は橋が落ちたり、道路が寸断される恐れがありますから、1週間くらいその場で生きられるだけの備えは当然必要になりますね。

大都会ではいったん大地震がおこれば、壊滅的な打撃を受けますから、さらに対策は綿密でなければならないし、防災というより減災対策にお金をそそがなければならない。
以前から何かとお騒がせな桝添さん、早くお辞めになって下さい。そうしないと東京都民は大地の怒りに触れるのではないかと心配でおちおち寝ていられません。



  6月13日(月)
長田弘さんの「なつかしい時間」(岩波新書)という本に「遠くを見る眼」という一節があります。長田さんの場合「遠くを見る眼」とは、一言でいえば「ひろびろと遠くを見渡わたす眼差し」のことを指すと私には理解されるのですが、この一節を読んで思い出すのは私が17歳、高校3年生の夏の出来事です。
文通していた中学で同級だった女の子から手紙が突然途絶えたことで悩み悶々としていた頃、それを断ち切ろうと父が誘ってくれた北アルプス登山に出掛けたときのことです。山小屋の前で、私は1人の若い女性とすれ違います。私はその人の眼に何故か心騒ぐものを感じたのです。
そうなんですね、まさしく「遠くを見る眼」でした。当時私が憧れていたこの「遠くを見る眼差し」にこんなところで出会うとは・・・。どこの誰かもわからない初めて出会った人だけれど、夕暮れが迫るアルプスの峰を遠く見やっているその眼に、私のこころは何故か懐かしさや優しさで満たされたのでした。
しかし、考えて見ると何故それほどその眼に惹かれたのか、そもそも「遠くを見る」とはいったいどういうことなのか、それは言葉では説明もできない不思議な感覚でしかありませんでした。
焦点の定まらないような眼でも、遠くの一点を凝視するような眼でもない。しっかり見ているが同時に見ていない。見ていないように見えてすばらしく理知的で聡明な眼差し。
よく考えれば、それは私の5感がそうだと言っているだけのことで、すこぶる独りよがりな印象で、本人にすれば全くの迷惑な印象だったのかもしれません。しかし、当時に私には、そのような眼差しが人間として限りない魅力にうつったのでした。

長田さんは、「かつて日本の物語や詩の表現の世界に、独特のひろびろとした魅力をもたらしたもの」は、「遠くを見やる眼差し、遠くのものをはっきりと見つめる眼、でした」と書き、それに続けて「美しかるべきものは、澄んだ眼で見る風景です」と書いています。そういえば、私が出会った眼も「澄んだ」美しい眼だったし、何故か私の好きだった女性の眼もそうだった。
しかし、これは長田さんが「遠くを見る眼」で言いたかったこととはちょっとずれています。深いところではつながっているようには思いますけれど、当時の私の感覚を思い返してみると「遠くに何かを求める気持ちの表れ」のようなものだったと思うのです。求めてやまない気持ちが眼に現れて人を引きつける、そんな感じです。
もう、久しくそのように人と接したこともなく、「遠くを見る眼」などということを考えることもなくあくせく日々を過ごし、パソコンには最接近で向かい、あるのは「近くを見る眼」ばかり。私も若い頃は多少感受性も豊かだったのかな、そんなときもあったなと苦笑いしながら本を閉じたことでした。

長田さんは言います。

遠くを見る眼というのは、いま、ここに在ることの、存在の感覚を鋭くします。眼を上げて、遠くを見る。
わたしたちはしばしば、そうやって遠くを見ることで、自分の場所、自分の位置を確かにしようとしてきました。
そうして、眼を上げて、遠くを見て、思い知るのは、人間の本当の大きさです。




  6月12日(日)
矢部宏治さんの最近の本に「日本はなぜ『戦争ができる国』になったのか」というのがあります。これは前作「日本はなぜ『基地と原発』を止められないのか」に続くもので、「基地権密約」と「指揮権密約」という二つの密約に焦点をあてて、日本がアメリカの軍事戦略に深くつなぎ止められ、自在に使われる構造をいまだに持っていること、そして「安保関連法」によって、新しい段階に踏み込んでしまったことを明らかにしています。
「基地兼密約」とは簡単にいえば、「米軍が日本の基地を自由に使うための密約」、「指揮権密約」とは「米軍が日本の自衛隊を自由に使うための密約」ということになります。前者の密約については過去さまざまな文書の発掘によってかなりの部分が知られており、実際に沖縄を中心にその具体的な様子が体験として知られてきましたが、「指揮権」についてはあまり知られてはいませんでした。私も「これほどまでに」という思いをしたのは、この本でその歴史と実態をつぶさに知ってからなのです。
書いてしまえば、明日には忘れそうな文面ですし、一般には米軍と自衛隊とは指揮系統は異なっているわけですから、そんなことは起こりえないと思ってしまうかもしれませんね。それは、自衛隊が海外に出て行くことはなかった状態が続いたからであって、安保関連法の成立で事情は根本的に変わってしまったと筆者は強調します。
海外で米軍がからむ軍事衝突や紛争があれば、自衛隊は米軍の指揮の下でいやおうなしにそれに巻き込まれざるを得ない構造が出来上がっている。このことを戦後の行政協定の時代、それに続く地域協定と日米合同委員会の歴史をひもときながら、明らかにされた密約文書をもとに詳しく解説しているのです。
そうしてみると、米大統領共和党候補トランプ氏がしきりに言う「米軍基地代を全額払え」という主張や「それが嫌なら米軍を引き上げる」という「脅し」がいかにもマユツバものに聞こえてきます。本気でそんなことを考えているなら軍部は絶対に従わない(事実そのように言明している)だろうし、リップサービスだとすれば「米軍引き上げ」の「脅し」は日本をもっと有効に利用しようとする底意を持つものです。
トランプ氏やクリントン氏が何を言おうが、構造としてそのように日本が組み込まれていることが重要なのであって、そこにメスを入れない限り日本は他国に主権を握られ属国としていいように扱われ続けるということです。
私もこの本で初めて知ったのですが、米軍関係者(要人であろうがスパイであろうが)が日本国内にフリーパスで出入りできる仕組みの一つが、厚木や横田に降り立った人物はヘリで横田空域(日本の管制権が及ばない米軍専用の空のエリア)を通って六本木の赤坂プレスセンター(実は米軍基地)のヘリポートまで行き、そこから自由に出入りするというものです。だから日本政府は、米軍基地に何人の軍人や政府関係者がいるかは全くつかんでいない。つかむことができないというわけです。
尖閣周辺に中国海軍の艦船が近づいたことに神経をとがらせる日本政府や右派のみなさんは、上のような実態にはまるで関心が無いか、あるいは日米同盟のもとでは当たり前のことだと思っているのでしょう。だが、アメリカ政府やメディアは実はそうした実態が不思議でならない。むしろ「頼むからそうしてくれ」と言わんばかりの日本の対応に、驚きながらも自らの利益にかなうことについては遠慮なく要求してくる。日本はいよいよ深くその構造に組み込まれ骨がらみになっていくという寸法です。
いずれもう一回読んで、先の本や「日米地位協定入門」(前泊博盛著 創元社)などを再読して、現在の状況を自分なりの問題意識で整理してみたいと思っています。

さて、今日は長野市内の「ひまわり公園」で戦争法廃止・立憲主義回復を求める大集会が開かれました。池田町からは一台マイクロバスを出して松川村の人たちとともに参加しました。
集会には主催者発表で2700人が参加、野党統一候補の杉尾ひでやさんも参加して熱気あふれる集会となりました。以下写真でその模様を紹介しておきましょう。各写真には大きな画像がリンクされています。















  6月10日(金)
今日はまた何と暑い日。真夏ですね。
午前中早い時間はそれなりに涼しかったので、私は朝7時から1時間ほど、道路向こうの斜面の草刈りをし、朝食後は妻と庭の草取りに汗を流しました。
我が家は2人とも自分の家よりもバラ園とか趣味とかを優先させてしまうので、いつも家の手入れは後回し。ようやく順番が回ってきたというわけです。
一方、離れの畑の方はまたまた草ボウボウ。明日は午前中は友人回りと午後仕事なので何もできず。あさっては長野での集会、その次の日は軽トラ実行委員会と続き、家のことが集中してできるのは火曜日になりそうです。さて、どうするか。
季節はめぐって、庭先に一列に植えたラベンダーが長い穂を伸ばして、小さい紫の花を一斉に開き始めました。イングリッシュ系が先でグロッソ系統はこのあと。まもなくさまざまな蝶々が乱舞することでしょう。


人前で何かをしゃべるときに、そのまま文章にできるような話かたができないものかと、いつもいつも反省させられてきましたが、それって言語能力なんですかねえ。もちろんノー原稿ですよ。
それとも日本語というのは、もともと話し言葉でかっこよく流れるようには出てこないもんなんでしょうか。

今日の琉球新報を読んでいたら、コラムにおもしろい記事がありました。安倍首相の強い断定調の話し方を巡っての一文です。
そこで紹介されていたのが、福島出身の詩人長田弘さんの長詩「嘘でしょう、イソップさん」の中の一節でした。

気をつけたほうがいいのだ、
何事もきっぱりと語るひとには。
です。であります。なのであります。
語尾ばかりをきっぱりと言い切り、
本当は何も語ろうとしていない。
ひとは何をきっぱりと語れるのか?・・・

語るべきことをもつひとは、言葉を
探しながら、むしろためらいつつ語る。


そういえばいつかも読んだことがありました。全く忘れていました。
考えを正しく相手に分かるように伝えることと、語尾を強調し言い切ることとは全く別のことでしょうから、私の問いとは直接リンクしているわけではありません。だが、当然のことですが、コトバを選べば主語・術語の関係があいまいになったり、話が飛んだりすることも生じますからね。十分言いたいことを事前に頭の中で構成し、必要ならメモをつくって話すといいのでしょう。
それにしても、長田さんのこのコトバは安倍首相にはピッタリです。
もともと話すことは、その人柄や生き方と切り離すことはできず、「その人のコトバ」だから感銘を与える。滔々と中身のない話を聞かされるほど馬鹿馬鹿しく非生産的なことはありません。最近でいえば、桝添都知事の会見や都議会での答弁が最たるものでしょう。

不幸とは何も学ばないことだと思う
ひとは黙ることを学ばねばならない
沈黙を、いや、沈黙という
もう一つのことばを学ばねばならない

長田弘「自由に必要なものは」

ここいらで、長田さんに弟子入りしたくなりました。詩作ではなく、コトバの豊かさ・貧しさ、自由さ・不自由さ、重さ・軽さなどについて学ぶために。残念ながら長田さんは昨年5月亡くなってしまいましたが・・・。その著作は、生きています。



  6月9日(木)
今日はMNEMOさんのライブの日。今頃はようやくひとつの仕事を終えて仲間たちと飲み語っていることでしょうか。
最近のブログで書き綴られていた「Musician 遍歴」を感慨深く読ませていただきました。それというのも、MNEMOさんと出会った頃や再会した頃のことを思い出させてくれたからです。
「ギグでの歌ども 6. I Love You Too」で、1999年秋に「狛江での暮らしに終止符を打たねばならなかった」と書いていらっしゃいます。その直後でしたね。ちょっとした秘密を暴露してしまうことになりますが、私はMNEMOさんから流麗な字で書かれた一通の手紙を受け取ったのでした。それがきっかけでその後しばらく塾の仕事をご一緒することになり、今なお交流を続けていられることになったのでしたね。
多分その手紙がなければ、musicianとしての遍歴の中でMNEMOさんにどれほどの曲折があり、どんな思いで暮らしていらっしゃったのかについて、おそらく何も知ることがないままであったことでしょう。
私の側からいえば、音楽じゃなくって魅力的な「人間MNEMO」と接点があると思っているので・・・そんな私でも、ああ、今日は多くの人に感動を与えているんだろうな、双方向の電流を感じられたらmusician冥利に尽きるのだろうななどと思いつつ、やはり友の活躍は嬉しいし心から応援したい。何しろ自分の舞台を創造しつつあるんですからね。
長い長い停滞の時期を通りすぎて、また音楽家としての活躍の場を広げつつあるMNEMOさんは、やはりただものじゃない。光の時も闇の時もその身で知っているから、心に響くうたを紡ぐことができるのだと私は思います。

さて、話は一転、いやな話題に。じつは今日、大切な奥歯を一本抜いてしまいました。歯科医の先生にいわせると「そのとなりも、次もヤバい」のだそうで、いよいよ「入れ歯」の季節かなとの不吉な予感が脳裏をよぎってしまいました。
右上の奥歯はとうの昔になくなっていましたが、かろうじて残っていた大臼歯のもう一本がぐらぐらして固いものを噛むと激痛が走る。その先生「これはもう治療のしようがありませんねえ、だましだましそのままにしておくか、抜くしかないでしょ」と言う。
1週間考えましたよ。ひょっとして歯磨きをしっかりやっていたら少しは改善するのではないかとか、やわらかいものはこっちでかたいものはこっちで・・・なんて。でも、そううまくはいかない。というわけで、思い切って抜いてしまったのです。
麻酔がさめたあともほとんど痛みはなく、ただポッカリ穴があいたように感じるだけ。抜けて初めて分かる歯の大切さ。髪の毛もいっしょ。終戦直後の幼少期からの習慣で、歯磨きをしっかりやってこなかったつけが今頃でてきたのでしょうね。
歯科衛生士の方が歯磨きの仕方を手取り足取り(ウソ)で教えてくれて、明日からは朝晩10分以上歯磨きをして、これ以上歯周病を悪化させないようにしようと決意した次第でした。
年をとるって、大切なものをひとつひとつ失っていくということなのですね。しみじみ。



  6月7日(火)
信州市民連合の事務局から送られてくる情報のなかに、務台俊介衆議院議員の街頭演説の概要を知らせてくれるものがありました。
長野2区の自民党の現職なんですが、今年の3月に「『保育園落ちた』との話があるが、東京を便利にすると、ますます東京に来て子育てしようとなる。 ある程度、東京に行くとコストがかかり不便だ、としない限り駄目だ」と語ったというので一時話題になったことがありました。TPP反対を掲げて当選したはずでしたが、さてこの頃の言動は??
ツイッターの書き込みをみると、安倍首相の拡声器の感がありますが、中でも反共意識は強烈で、たとえばシールズの利用した街宣車が共産党の宣伝カーだったことを鬼の首でも取ったように「共産党の街宣車がSealdsの街宣車と同じ! やはり、Sealdsは共産党の偽装でしたか」と書いていらっしゃる。
市民運動の背後には共産党がいて、街頭行動をしている若者や母親たちなどはすべて共産党が操っているといいたいのでしょうね。この一事をとっても、市民運動のなんたるかをまるでお分かりになっていません。すべては反共の色眼鏡かフィルターにかけて自分に都合のよいものしか見えてこないのですから仕方ありませんけどね。
おそらく私たち「町民の会」や「9条の会」も同じようにしか彼には見えない。たとえば、19日に行う「軽トラ平和パレード」では、共産党の議員の方たちに宣伝カーを出していただくようにお願いしました。宣伝カーを借りた団体が宣伝カーを所有する政党の「支配下にある」などと見做すことは、浅はかな妄想にしか過ぎません。軽トラパレードに参加している誰かに聞いてみれば、為にする虚言であることはすぐに露呈するのですから。

さて、件の議員さんの街頭演説に、こんなくだりがありました。

集団的自衛権様々な議論があります。しかし、万が一のために、制度を用意しておく。これを用意することで日米同盟を強化して中国や北朝鮮もやたらなことはで きなくなっている。平和を実現する手段が集団的自衛権なんです。それをこともあろうに「憲法違反だから」即刻廃止しろ。そういう立場は私はとれません。
日米同盟を弱め安全保障環境が不安定になり、また中国が尖閣諸島を虎視眈々とみつめる。その責任は誰がとるのでしょうか。われわれは安全保障の変化のなかで現実的な対応をしないと日本の平和を守れない。その現実をしっかり認識していただかないといけません。


立憲主義を壊し、旧来の主張すら投げ捨てて解釈改憲で戦争できる国にするのが集団的自衛権の行使容認だとして国民の多数が反対したのでした。
彼の論理では、「現実的な対応」とは、「平和を守る」に必要な軍備を持ち憲法でどう書いてあろうが日本に関係のない戦争にも協力できるようにすることです。つまり果てしなき軍拡によるしか平和は守れないという帰結になります。
仮にトランプさんがアメリカ大統領になり、在日米軍の駐留費用をすべて出せということになったら、それに従うことも「現実的な対応」ということになるのでしょう。安保環境の大変化ですからね。務台さん現実的に対応しないといけませんよ。
沖縄の基地も、中国に対する抑止という観点からみれば地位協定の改定などを言い出すことは現実的ではなく、新基地を建設することこそ抑止のために現実的な対応なのだとならざるをえない。
この種の議論でいつも顔を出すのは「現実的」という言葉。憲法9条を守れなどというのは理想論だという言い方とセットで使われます。「現実的」とは全くの「現状追認」です。自分たちが作り出したものに人々を従わせるときに使うと大変便利なコトバです。

しかし、考えて見ましょう。軍拡で平和が守られた国などないのですよ。せいぜい、他国との緊張を一層強め、国民には耐乏生活を強要し人権を制限する方向にしか作用しません。アメリカだって中国だってそうでしょう。
この人たちの頭の中には、どのようにしてアジアで平和を構築するのか、その方法を考える能力も意欲も持ち合わせていらっしゃらないのだなということがよくわかります。

さて、軽トラパレードのためにつくったのぼり旗が今日業者から届きました。なかなかカッコいい・・・と自画自賛。当日は軽トラに翻して安倍政権をぶっとばしたいものです。




  6月6日(月)
休む間もなく、19日の軽トラパレードに向けて、いろいろ準備をしていました。ひとつは当然のことながら参加人員、参加車両の確認。1人1人にむけて参加要項を渡さないといけません。要項の最終チェックと配布にあちこちまわりました。
池田町の現在の参加状況は40台。これには安曇野市からの6台が含まれています。昨日はるばる飯山市から参加の申込がありましたよ。是非とも参加させてほしいとメールしてきてくれました。
当日駐車場に100台の軽トラがひしめき合うことになるのではないかと恐いほどの予想です。
続いて、「戦争法に反対する池田町民の会」のニュース15号もつくりました。軽トラを持たない人たちにも大勢参加してほしいからです。当日は野党統一候補の杉尾ひでやさんも参加する方向で調整中といううれしいニュースも受け取りました。これは何としても成功させなければなりませんね。

沖縄では、翁長与党の各政党・会派の議員が多数当選し、与党だけで前回3議席増の27議席(中立6、野党15=定数48)になったことが報じられました。糸満市で共産党の候補が惜敗し7人全員当選はなりませんでしたが5議席から1議席増やしました。自民党は14人と1人増やしましたが前々回の16には及んでいません。
さて、この結果を政府はどう見ているのか。
例によって菅官房長官は「安全保障環境が極めて厳しい状況の中にあって、日米同盟の抑止力維持と普天間飛行場の危険状況を考えた時に、辺野古移設は唯一の解決策である」と冷淡そのもの。何よりもこの選挙が米軍基地の存続、新基地建設の是非を巡って争われたにもかかわらずにです。はなから沖縄県民の心情をくみ取る気もないことを露呈していますよね。
つい先日の琉球新報と沖縄テレビ放送の合同世論調査(5/30〜6/1)で、米軍属女性殺害事件の防止策には「沖縄からの全基地撤去」が42.9%(基地の整理縮小27.1%)、「海兵隊の全面撤去」支持が52.7%(大幅に減らす31.5%)と、基地撤去への強い意志が現れていました。これが今回の選挙結果に連動していることは明らかです。琉球新報の言うとおり、「県民の怒り・悲しみは臨界点を超えている」のです。
辺野古の海はかつての美しさを取り戻したかのように見えますが、キャンプシュワブ前では依然として県民の座り込みが続いています。警察が手薄になるとみるや、ゲートの中に待機していた機動隊員が飛び出してくるのですが、最近彼らは腰に拳銃を装着するようになったらしい。交通整理にあたるのに何故拳銃を持たなければならないのか。これは議会その他あらゆる場面で徹底的に追及して欲しいものです。(写真は「チョイさんの沖縄日記」より)






  6月5日(日)
ようやく3日間のバラ祭りが無事終了しました。さすがに疲れた。
夕べはポツポツ雨が落ちていたので心配していましたが、今日は晴れ間が広がり、午後からは汗ばむ暑さ。アルプスの雲も次第に晴れて絶好の行楽日和となりました。
男性陣は終日といっていいほど駐車場係で、どんどん訪れる車をさばいていたので、落ち着いて中で訪問客と話す余裕もありませんでした。もちろん今日は写真は一枚も撮れず。下の写真はすべて昨日のものです。
遠くは大阪から来たという5人連れがいてびっくりしました。聞くと、安曇野を旅していて、たまたま宿泊先でバラ祭りのイベントがあると聞きつけてやってきたのだとか。同様に、横浜からの二人連れもやはり安曇野旅行のついでに寄ったのだという。
また、諏訪からも、若い二人連れ他やはり安曇野旅行をしていて、たまたま案内看板をみつけ「吸い込まれるようにやってきた」と話していました。
最終日の日曜日ということもあってか、広い駐車場がいっぱいになり、いささか慌てました。いままでこんなことはありませんでしたから。
結局、初日400人、2日目600人、3日目の今日は1000人、バラ祭り前までに1300人ほどが訪れていますから、昨年の3000人を上回る3300人が来てくれたことになります。
うれしい悲鳴には違いありませんが、これ以上の規模となると、市民グループのイベントとしては範囲を超えてしまうことになりかねません。車が多くなりすぎると駐車場も対応しきれず地域の方々に迷惑を及ぼすことにもなるし、多くの人で小さいバラ園の収容能力を超えてしまうことにもなります。接待するテントでもパンク状態になってしまいますからね。来年度の開催にあたっては、そのあたりの問題もしっかり議論して、対応を考えないといけないと思わされました。












それにしても、片付けも終わって人気のなくなったバラ園に夕日が差し込み、陰影が濃くなったバラ園の何という美しさ。こんな時間こそゆっくり花を愛でるのにふさわしい。「秘密の花園」にぴったりの佇まいです。



  6月3日(金)
北海道で不明だった男の子が見つかって本当によかった。もし自衛隊訓練施設でそのまま発見されずにいたらどうなっていたかを考えるとゾッとします。
父親を責めることは簡単だし、事実許しがたい軽率でバカな行為であることは間違いありませんけれど、ほんの軽い気持ちでやったことでここまで大事になるなどと思ってもみなかっただろう父親の心中は計り知れない。
全国の子をもつ親たちの視線には厳しいものがるでしょう。しかし、この父親にとってはいかに辛かろうが我が子を心から慈しみ大切に守り育てることが償いと心得て、踏ん張り抜いてほしいものです。
バラ園でも、会員たちが「見つかったんだって、よかったね」と話し合っているほどに、誰もが心を痛め、無事発見されることを願っていただけに、本当にホッとしました。

さて、バラ祭り始まって以来ともいえる素晴らしい快晴の一日。安曇野の田園をはさんで、くっきりと横たわる北アルプスの壁。少なくなったとはいえ、まだ頂には雪が残っています。田植えの終わった田んぼ、冠雪の北アルプス、青い空、そして緑に囲まれて咲き誇る満開のバラ。まさしく絵になるような今日のバラ園の風景でした。
訪れてくれた人たちは、口々に「わーきれい」と嘆息まじりに声を上げていましたから、今回のバラ祭りはタイミングといい天気といい、申し分のない最高のイベントとなりました。
おかげで、会員たちは休む暇もなく対応に追われ、終了の4時過ぎにはみんなぐったり。とはいえ、まだ2日間残っています。力を合わせて乗り切りたいものです。
先日は、安曇野ケーブルテレビが取材に訪れたし、今日は大町SBCラジオが生放送で中継。わずか5分間でしたが私が声の出演をしました。誰も引き受けてくれないので、やむなく。バラ園を始めた頃には、テレビやラジオの取材があるなどとは夢にも思わなかったなあ。












  6月1日(水)
あさってからのバラまつりにむけて、相変わらずバラ園通いが続いています。私の電話番号が新聞の記事に書かれているので、朝から夕方まで相当数の問い合わせが。大抵は「どう行ったらいいんですか」というもの。ちょっとわかりにくいところにありますからね。
比較的天気の良い日が続き、バラたちも今が盛り。花殻摘みなどをしながら花を見つめていると目がチカチカしてきます。何とか天気が持ってくれたらいいのですが。




今日は市民タイムスがバラ園を紹介してくれました。ただし、この記事では我がバラ園の広さはまさかの120平方メートル。そりゃないでしょ。せめて1200uとしてくださいね。
この新聞は松本・塩尻・安曇野市方面でひろく読まれているので、明日から沢山の人が訪問してくれるのではないでしょうか。期待しています。


今月は、いよいよ100台軽トラパレードの月。6月19日が実行日で、昨日はその第3回実行委員会をひらきました。
全体として目標の100台までは届いていませんが、今のところ80台に近づきつつあるという状態。それでも壮観でしょうね。10日を目指して最大限取り組みを強めるのみです。

アベさんは、わざわざ「リーマンショック級のリスク」などと突然持ち出し、集まったG7首脳たちに笑われながらも消費税増税を延期せざるをえなくなってしまった。自らの政策「アベノミクス」の失敗を天下に認めたようなものでしょう。
NHKは、賛成反対の学者先生や財界代表をテレビに登場させていましたが、賛成の方や財界代表の言い分は「消費税増税を延期すれば財源がなくなる」というワンパターン。福祉関係にまわず財源がなくなるので困る、福祉関係の労働者が集まらないで大変なときに何とか別の財源を、というこれまたワンパターンの発言しか紹介しない。なぜ、日本の課税のありかた全体を問題にしないのでしょうね。
現在のように非正規雇用の氾濫、格差の拡大が問題になってくるのは、明らかに労働形態が根幹から崩された1999年労働者派遣法の改悪からでしょう。これほどの低賃金社会・劣悪な労働環境をつくりだしておいて、消費が上向きになる方がおかしい。おそらく、もっと強烈な消費不況が必ず訪れると私には思えます。
労働者の賃金を引き上げるだけの力が大企業にないわけはありません。政府すら口にするようになった大企業内部留保がそうだし、各種の大企業向け特別減税もそう。さらに収入が1億円を超えると所得税率が下がっていくという金持ち優遇税制もそうです。取れるところから取らずに、大衆課税を強化し、それを社会保障のためだというもっともな「口実」をつくりあげる。
税制のあり方にもっと敏感になり、政府やマスメディアが垂れ流す「ワンパターン理論」に騙されないようにしないと、我々庶民がいつまでたっても貧困のままです。怒りをこめて軽トラデモを成功させようではありませんか。




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