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  7月30日(月) 曇りのり雨          少しは落ち着きました

ここ最近の我が家の食卓は、家庭菜園で採れたものばかりです。キュウリ、トマトは勿論、茄子、オクラも小さいながら取れるようになりました。ゴーヤーやトウモロコシがやっと収穫期になりました。茄子を漬物にしたり、カボチャやトウモロコシでポタージュを作っています。
畑には収穫期になると狸?が出てきて食べてしまうそうです。今は完熟状態ではないのでまだ出てきていませんが、みんなに遅れないように動物対策をしなくてはなりません。


最近の日課は母に御飯(おぼけさま?)をあげて線香をつけてお参りする事から始まります。
沖縄を始めいろんな方からご香典などが届きました。そのお礼状の発送もようやく終わり、ちょっと一段落しました。あとは富山での四十九日の法要の準備に取り掛かります。
母が亡くなり、両親がいなくなりました。これで一つの時代が終わったような気がします。
”いつまでもあると思うな親と金”なんていいますがやっぱり寂しいものです。年をとってなんにもわからない状態で介護を受けていても、生きているというだけで「まだ親がいる」という気持になり一種の安心感があったものです。今は親がいなくなり、私達が親の立場になったので不安感の方が先に立ちます。夫婦だけの生活になってしまいましたが、子供達にとっては「親の時代」を思い出に残るように一生懸命生きていけたらと思っています。

20日、30日と言えば職場の安売りの日です。毎月待ってましたと買物に飛んでいきました。
母の介護用品は毎日使うもの、少しでも安い日に買いだめをしたものです。その必要がなくなった今日は大きな買物はありません。母がなくなる前に、母にも食べてもらおうと注文しておいた「土用丑の日、うなぎ弁当」を受け取ってきました。結局、三人で食べるはずが二人で寂しく食べることになりました。
何かにつけてまだまだ母との生活が思い出され涙が出てきます。早くに親を亡くした友人たちが、「生きている内に親孝行しなさい」とよく言っていたのを思い出します。最後だけでもお世話が出来た事が唯一の救いでしょうか。
里の母も間もなく88歳になりますが、骨折してからは後遺症で十分なことが出来なくていらついているようですが、気力だけはあるようです。
親は空気みたいなもので、自分の親の愛情なんて深く考えたことがなかったけど、このことをきっかけに少しは考えてあげたい。
離れていて孝行らしきことも出来ないが、たまには顔を見に行くだけでもいいかな。元気だからと安心は出来ない。いつ何時、何が起こるかもしれない、後悔しない生き方をしなさい・・・母が残した教訓でした。

午後から久しぶりに趣味の教室に行きました。教室に来ている人たちも「うちも今年は新盆よ」とか「夫が病気で来月は休む」とかそれぞれに事情を抱えていますが、そんな中でもしばしの楽しみの時間を持っています。
夫も学生の夏休みの講座が始まり忙しくなりました。日は容赦なく過ぎていきます。今までとは違った忙しさがやってきます。


  7月24日(火) 晴れ          葬儀からの経緯

長い事休んでいたので今日から出勤です。短期間のうちにいろんなことがあったので仕事の内容も忘れかけていました。職場はいつもと変わらず各自がそれぞれの持ち場で一言もなく働いているだけです。ぼーとしていた頭が現実に引き戻された感じでした。母が元気な時は店に並んでいる惣菜から、いつも食べやすい柔らかいものを選んで買っていました。 今、改めて眺めていてもうそんな必要もなくなったかと思うと寂しくなりました。
この職場に来ると、母が亡くなったことを聞いて心臓が止まりそうになったあの日のことが蘇ってきます。
今まで書き留めていたあの日から今日までの出来事を私自身のメモ代わりに書きとめておきたいと思います。

13日(金) 母死亡の知らせ

母は11日からショートステイにいつものように元気に出かけました。12日からは夫も東京に出かけ、初めて一人の生活を楽しんでいました。気分だけは楽でしたが、することはいっぱいあって母が帰ってくるまでの仕事の予定を決めていました。
ところが職場で6時3分頃、電話がなりました。かかってくるはずのない私にケアマネさんからの電話でした。「お母さんの呼吸が停止しまして・・・・」と曖昧な言い方でしたので「それからどうしたの」と聞き返したら「亡くなりました」というのです。「え、うそ。どうして」という言葉が思わず出ていました。「いま病院にいます」と言うことだったので取るものもとりあえず病院に駆けつけました。
変わり果てた母と対面。どうしてこんなことになったのか言葉もでませんでした。すぐ東京にいる夫の携帯に電話をいれましたが繋がりません。警察が検視に来ていて事情聴取を受けました。こんな時一人だとどんなに心細かったか。夫には何べん電話をしても通じません。仕方なく警察の聴取も受け、死因をはっきりさせるための検査も受けました。結局死亡の原因は老衰ということでした。
身体を綺麗にしてもらってまたまたショートステイ先に戻り、もう一晩お世事になりました。夫に連絡がついたのが午後9時ごろで、長野に戻ってきたのが午前2時でした。

14日(土) 関係者に連絡、葬儀の手配
シヨート先から母を自宅に運びました。葬儀屋さんが来て葬儀の打ち合わせ。
町内の隣組の皆さんも次々弔問に来てくださいました。隣組(町内の班)のみなさんはそのままお手伝いをすることになっているのだそうです。
次々と子ども達や孫たちがやって来ました。富山とは違う葬儀の段取りに驚いている時間もなく通夜。終わったら隣組の皆さんも含めて夕食。そのような食事は葬儀屋さんから運ばれてきます。明日の一時から葬儀と決定しました。

15日(日) 葬儀の日 午前中

池田では葬儀の前に火葬が行われるのだそうです。富山ではとても考えられず火葬を葬儀のあとにしてもらえないかお願いしたところ、火葬場の都合がつけばそれも出来るというので連絡をしながら予定を立てていましたが、結局ダメでした。仕方なく慣習に従う事になりました。
9時から火葬予定のため、家を8時半に出ました。このあたりは遺体を運ぶ車も霊柩車ではなく普通の車でした。その車に私達夫婦が乗り、後は来てくれたバスでの移動でした。
火葬場は民家の近くにある煙突もないこれまた普通の家風の建物です。遺骨が上がるまで約2時間掛かります。案内しますからそれまで別棟で休んでいてくださいといわれ通された部屋には食事が並んでいてびっくり。今食べてきたばかりなのにどうしてと思います。時間がかかるので昼食を兼ねているのだそうです。何もかも驚きの連続でした。

葬儀の開始、午後1時から

11時半頃に火葬が終わり、骨上げも終わって今度は葬儀場へ直行でした。
隣組さんが受付をして下さっていたので私達はお坊さんや司会をしてくださる方と打ち合わせが終了してからは会葬してくださる方をお迎えする事だけでした。
新地での思わぬ葬儀、隣組や夫の関係者が来てくださり、簡素にしたいと思っていた当初の思いとはうらはらに、沢山の弔問客になりました。
葬儀が終わって喪主挨拶の際、喪主の妻も一緒に出ることも初めての経験でした。夫婦で遺骨と写真を受け取って隣の部屋へ移動するという仕事があったのです。(富山では棺おけを霊柩車に運び火葬場に運ぶ作業がこちらではもうすでに済んでいるので)。
隣の部屋では葬儀に参列した方全員が「棚上げ」(精進落とし)に参加するのです。すでに準備をしてある料理を食べながら酒を飲むのです。富山で七日の法要に全員が参加するようなものでした。

16日(月) それぞれの居住地へ帰宅

わざわざ連休を選んでくれたかのように日・月の連休でした。海の日です。
娘は仕事がちょうど休みで今日までいてくれました。息子も遠い県外からきました。亡き母の次男(故人)の親子も今日までいてくれました。みんな疲れて朝はゆっくり休んでいました。これから先のとりあえず21日の七日の法事に向けて打ち合わせをすませて、昼食はレストランで全員で食べに行きました。夕方近くにみんな帰宅しました。

17日(火) 富山の法要の準備、電話連絡やら案内ハガキつくり

18日(水) 富山へ。お寺さんや、「偲ぶ会」の会場の下見に

ちなみに今日18日は私の誕生日でした。大変な誕生日になってしまいました。夫のプレゼントや昨夜食事に行っただけが誕生日の祝いでした。子供達はきっと忘れているだろうと思っていたら娘からメールが来て嬉しかったね。お祝いは後で渡すということでした。
実際、誕生日どころではなく朝から富山へ。いろんな会場の下見です。お寺さんとの詳しい打ち合わせも電話だけでは十分ではないので直に話し合い。午後からの会場になる「ボルファートとやまも」の会場をみて直接の打ち合わせ。終了次第すぐ池田にもどりました。

19日(木) 一日かけて最終準備。

その間に問い合わせの電話や弔電や香典が届いたり、遅くまで抜けてないかの最終チェック。忙しい一日でした。

20日(金)一日早く富山へ。再度最終チェックと会場準備。花やさんへ花の依頼。花屋さんでは偶然にも夫の教え子さんの店でした。昔の話ひと時花が咲きました。

21日(土) 午前中七日の法要兼告別式、午後教員関係のお別れ会ならびに偲ぶ会

10時からの開始に向けて9時から準備やら司会者との打ち合わせ。母の元町内の方やいろんなつながりのある方が沢山お参りして下さいました。金沢からも母の妹夫婦と姪っ子さん方が駆けつけてくれました。


午後の教員関係の方々による「お別れ会ならびに偲ぶ会」にどれだけの参加があるか皆目見当がつかなかったので少々心配でしたが、30人余の師範時代の同級生、元同僚、教え子さんが集まってくださいました。
前半が「お別れ会」、喪主の挨拶の後、黙祷に続いて懐かしい写真の紹介、お別れの言葉や献花と一定の儀式が終了。
後半は「偲ぶ会」。お料理を食べながらしばし歓談。東京など遠くに住んでいらっしゃるかたも来てくだり皆さん懐かしそうでした。私も知っている栄養士さんは、「本当は香典だけで失礼しようと思っていたが最後まで参加してしまいました」と話していました。


皆さん母と同じかそれに近い年齢の方ばかりでしたが、お元気そうで最後までしっかり参加してくださり母に最後のお別れをして帰っていかれました。
娘や孫達も最後までお手伝いをしてくれたので、母が元住んでいた家に集まり簡単な慰労会をして終わりました。「いい会だったね」・・とこもごも話し合いました。

22日(日) 当初はその日に帰る予定にしていましたが、もう一泊してしまいました。引き出物などの支払いも残っていたのでそれらを済ませ池田への帰路につきました。


  7月23日(月) 曇り        母の思い出

母(本当は姑ですが、いつも母と書いていたので)が亡くなってもう11日目になります。富山での告別式や偲ぶ会などを済ませ昨夜池田の我が家にかえって来ました。

今日は二人ともなんだかボーとしています。「これから疲れがどっと出るから気をつけてね」と皆さんが私達のことを心配してくださいます。不思議と疲れたという感じはありません。
本当になくなったのか実感が湧きません。今でもデイサービスから「ただいま」と帰ってきそうです。


仏壇の遺影を見て今までのことが走馬灯のようによぎります。
思えば母と私が出会ったのは今から36〜7年前のことです。当時私たちは名古屋に住んでいたので、結婚の報告に富山に行くことになりました。まず案内されたのが勤め先の小学校でした。サンバイザーをかぶりてきぱきと動いている姿が印象的でした。
それから間もなく、定年より少し早く母が退職したので、職場で働く姿を見たのはこれが始めての最後でした。
当時、自宅は富山市内にあり、そこでは皆さん勢ぞろいして迎えて下さって、そんなことになれない私は恥ずかしく小さくなっていたのを思い出します。兄弟で遊んでいる所にも顔を出し、トランプ遊びを一緒にしたので驚きの方が大きかったです。
私が育ったのは沖縄の田舎。父は病弱で寝たり起きたりの生活で、母は農作業で忙しく、親と一緒になって遊んだいう経験が全くありませんでした。そこが公務員家庭と田舎の家庭での育ちの違いかと羨ましかったのを覚えています。
その後、名古屋から富山に移ってからは、私たちはその実家の近くに住み、仕事中は実家の母に子どもたちの面倒をみてもらうという生活が始まりました。
その頃、実家では呉羽の地に大きな家を建てて、弟がお嫁さんをもらった後も母は弟夫婦と同居生活をしていました。孫は朝送っていって夜迎えにいくという生活で、綿地達自身は同居した事はありませんでした。
お父さんとおばあちゃんも穏やかな方で、私を可愛がってくれました。嫁姑の関係がよく言われますが。いじめられるということは一度もありませんでした。しかし母は、はじめは嫁教育のためなのかお節介が過ぎることがあって、その事で口答えをした事があります。私の性分を知ってからはそのように付き合ってくれました。
夫がいない時期でも母の日にはプレゼントを持って行ったり、孫達の相談にも乗ってもらっていたので交流はつづいていました。しかし口には出しませんでしたが、気持の中には息子を追いやった憎い嫁という思いもあったような気もします。
母が東京に行ってからは当然ことですが息子が第一で、嫁のことは思い出すこともなかったのでしょうか。
東京に行く少し前から異常な行動が少し見られたので心配はしていましたが、その頃は関係ない立場でしたのでさよならも言わずに行ってしまいました。風の便りで元気な様子は知っていましたので安心はしていました。
弟の死がきっかけになり、夫とも再び一緒にくらすようになったのですが、池田にくる一年前は東京にチョクチョクいって様子を見ていました。その頃はまだ足も元気だったので家の中を動き回り、台所もかき回し、夜は一晩中喋っていました。
私や夫と母親との会話らしいことが成立する時もありました。その前は外にも出て大変な騒ぎになったこともあったといいます。毎日見ている夫はさぞかし大変だったことでしょう。
私も退職して、池田に来て2年間余が母との一緒の生活でした。足もだんだん弱りベッドの上での生活が多くなって、起して着替え・食事・デイサービスへ送り出すという生活が始まりました。そんな中でも暫くは「あんた、誰?のりちゃん?」なんて私を覚えていてくれたようです。友人達からは「何で今頃、苦労しに行くの」といわれたこともありましたが、長いこと一つの事を信じてきたので、神様に気持が通じたことの嬉しさのほうが大きかったのです。
自分の人生はいまが出発点、恩返しのつもりで面倒を見る決心が出来ました。

短い同居の生活でしたが、笑いあり、涙ありの付き合いでした。
お母さんは死なないと思っていました。人間はいつか死ぬのはわかっていてもそんな気配もないのでまだまだ死なないと思っていました。
介護といっても私の場合はなまぬるかったかもしれませんが、昔の元気な頃を思い出すとつい「しっかりしなさい」と声を荒立てたこともあります。今となっては悔やまれることだらけですが、最後は私達にもお別れも言わずに一人旅だってしまいました。これが子ども孝行のつもりだったのでしょう。
若い時は「夫ばかり可愛がって」という嫉妬心もありましたが、今となっては同じ扱いでした。私だけではなく夫にも「あっち行け」なんて言うし「ありがとう」も同等でした。一緒に生活をしていると情が湧くものです。今でも9時になると「起さなくては」と驚いて目が覚めることがあり、ハッとさせられます。
体は楽になったはずなのに空虚感だけが残ります。いろんな思い出がありますが折りにふれて、また書きたいと思います。
お母さんもう楽になったでしょう、お父さん、次男のAさんやおばあちゃんと仲良くしてね。


  7月9日(月) 晴れ  米軍、沖縄で枯れ葉剤

今朝の信濃朝日新聞を見てびっくりしました。"米軍、沖縄で枯れ葉剤"という見出しで、その詳細が大きく報道されていました。
1960年代の初め、雑草除去の目的で米軍が北部訓練場で散布したようなのです。その作業に携わった元米兵が前立腺癌の後遺症に認定されていた事が米退役軍人省の公式文書で明らかになったといいます。
枯葉剤というのは皆さんご存知のように米軍がベトナム戦争で使用した猛毒のダイオキシンです。ダイオキシンは自然分解されにくく一般に汚染は長期間続くと言われています。ベトナムでは戦争が終わっても、その影響でベトくん、ドクくんのような先天性異常児(結合児)が生まれたり、流産・死産などが多発しました。帰還兵にも被害が出ているとのことです。今でも一部では高濃度のダイオキシンが検出されているそうです。こんな恐ろしい出来事が沖縄でもあったなんて本当に驚いています。
私の里は南部の端です。北部が米軍の拠点になっていたので距離的に遠いといえば遠く、あの頃はニュースなどもすぐには伝わらない時代でした。
1961年〜62年と言えば私はまだ高校生でした。ベトナム戦争に沖縄が米軍の拠点になっていることは知っていましたが、深くは知りませんでした。今回明らかになった文書では、訓練所付近の環境が汚染されている可能性を示しており、今後使用場所の特定や汚染除去対策が問題化しそうだと報道されていました。その枯葉剤散布が判明した米軍北部訓練所は部分返還に向け政府が米軍ヘリパッドの移設工事に着手したばかり。枯葉剤による汚染の有無など実態は不明のままで、周辺住民は不安を隠せないともいいます。
米軍の毒ガス移送が問題になったことはあっても枯葉剤が問題にされた記憶はないと基地問題に関係した人は話しているとそうです。一日も早く実態が解明されることを願うだけです。


  7月6日(金) 晴れ        思わぬプレゼント

このところ天気が続いているのにアルプスは霧がかかったようでまるではっきりしません。
7月に入って「あー、また年をとる月になったか」と一人でため息をついていた所、夫が「ちょっと早いけど」と言って品物を私の目の前に差し出しました。びっくりして「え、なに」・・・。なんと誕生日のプレゼントでした。あと10日ほどで来る誕生日のために準備をしてくれていました。娘が聞くと羨ましがるかもしれませんが、「アイポッド」。
富山への行きかえりに夫が持っているアイポットをいつも貸してもらって聞いていました。そのうち買ってあげるといっていましたがいつの間にか忘れていたので差し出された時はびっくりしました。夫の持っているものよりはやや小さめですが、それでも性能がよくなっており曲も沢山入るとのことです。こんな年になってプレゼントをもらうのはちょっと気恥ずかしい気持ですが嬉しいですね。(ちょっとウルウル)。
早速今までのひばりの曲を全部入れてもらい、外にも好きな歌手の曲も入れてもらいました。ボウリングの月例で松本まで行く道中、それらを聞きながら出かけました。アイポットなんて若い人が持つものだと思っていたので、こんなおばあちゃんが持っているのを見るとびっくりするでしょうね。今後も好きな歌手のC,Dを借りてきていれるつもりです。また一つ楽しみが増えました。



  7月5日(木) 晴れのち曇り        賑わっている蛍まつり

今朝朝顔が一輪咲いているのを発見嬉しくなりました。今年は朝顔や風船かずらは種を蒔く時期を逸したので諦めていました。しかし、前の住居から運んで来た土からいつのまにか自然に芽が出ている!うれしくなってそれを鉢に移しておきました。例え一輪でも花は人の気持を和ませてくれます。
庭では今まで賑やかに咲いていた赤いカスミソウも咲き終わり、ちょっと寂しくなりました。でも代わりに白のかすみ草が咲いてきました。同じくらいに種を蒔いたような気がしましたが、咲くのは赤が早いのでしょうか。赤を蒔いたのは初めてでしたのでいろいろ勉強になりますね。
今花の旬は「ラベンダー」。町の至る所で見かけます。うちでも夫が毎年挿し木で増やしたものが一斉に咲いています。香りの強いものから弱いもの、花も種類があって楽しいです。


ところで皆さん最近「蛍」を見たことがありますか。娘たちや孫たちも多分見たことがないのではないでしょうか。
我が家から少し行くともう隣の町内になります。その町内が「蛍の里」として有名です。
1週間前から「蛍祭り」が始まり、遠くからも見に来る人で賑わっています。
今まで雨が降ったり、夫が仕事で留守だったりでチャンスがなかったのですが、やっと行ってきました。
蛍が出る時間帯は夜の8時から9時。近いので歩いて行きました。爽やかな風が吹いていて田んぼでは蛙の合唱、気持のいい散歩になりました。
晴れたので今日は特別に賑わっており、夜店の方も客が多くこちらも賑わっていました。明日から週末は混雑が予想されるのでちょっと離れた福祉会館の駐車場からシャトルバスが出る予定になっていす。
蛍が出るのは150m位の範囲の水路です。あちこちで沢山飛び交って、ピカピカ光ってキレイ!久しぶりにホタルを見たので感動的でした。
小さい頃は家の近くに沢山飛んでいたので珍しくもなかったのですが、今は遠くから車で見に来る時代なんですね。夫が育った富山も街中だったのですが、裏の川にはやっぱりたくさん蛍がいたそうです。環境破壊のせいもあるのでしょう。
私は始めてですが、夫は一昨年見に来たので今年の方がはるかにホタルの数が多いそうです。子ども達も多く来ており、「蛍の寿命は1週間だって」などと話しながら歩いていました。孫達にも見せてあげたい。


  7月2日(月) 雨      介護用品の品数を増やしてほしい

いよいよ誕生月の7月にはいってしまいました。時よとまれと叫びたくなります。
朝から雨、ちょっと肌寒い日になりました。畑の草も気になるので傘を差して見に行くと草ボウボウ。夫が毎日少しずつは取っているが追いつかない。晴れたらまた取るしかない。
トウモロコシも大分多きくなってもう穂が出ているのもありました。よその畑ではうちより小さいのにもう穂が出て、実をつけているのもありました。いったいどれくらいの実になるか。
カボチャは元気で、家に植えてあるカボチャには一本に沢山の実をつけています。見るからに美味しそうです。

午後から洋裁の日。帰りに母の買物をするために介護用品の店を回ってみました。なかなかほしい商品が見つかりません。
母は寝るときはオムツに夜用のパットを当てて、さらに上からオムツカバーをするという、二重三重の漏れ防止をしています。尿量が少ない日もありますが、大量に出る時はシーツまで汚してしまうのです。
介護用品店でオムツカバーを購入しようと店の人と話していたら、今置いてある種類以外ある事も知らなかったというのです。
「これは寝たきりの人用で、立って着替える人には都合が悪いです」というと「そうですか、では違う種類のもあれば入れておきます」と言われました。介護専門店の人ならもっといろんな情報を仕入れてほしいですね。
介護というと、人は大変ねと言いますが、実際に介護していないと具体的な細かい点の大変さなどわかりません。
田舎の祖母は99歳まで元気に生きて、2〜3日臥せっただけで逝ってしまいました。今思うと子ども孝行だったのですね。理想的な死に方ですね。

昨日は晴れて気持のいい日でした。先週の日曜日から夫のところに中国人の若いSさんがビジネス日本語の勉強に来ています。先週私は留守だったので夫から話を聞いていただけでした。
昨日2回目があり、どんな勉強をしているか実際に同席してみると、語句の意味など私達でも難しいと感じる所がありました。彼女は日本の文章をすらすら読み、また書いたりするので感心してしまいました。変わりに中国語を教えてもらおうと話をしていたら、発音が難しく大変そう。外国人が日本語を勉強するようなわけには行きません。本当はそのほうが難しいと思うけどよく短時間でマスターすると感心するのみ。11月にテストがあるそうです。それまで毎週日曜日のお付き合いが始まります。






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