「フクシマ」が特定の一地域のこととされ、「深刻に考えてもすぐに手を打てない、だから見ないことにしよう、というムードが政府にも蔓延している」(山田厚史の世界かわら版=diamond Online)という状況下での選挙。しかし、かなりの規模の地震が福島県直下あるいは近海で起こったとき、「4号炉の建屋上部にある使用済み燃料プールが崩れ落ちれば、東京を放射能が襲い首都機能が麻痺する恐れさえあるという」(同上)としたら、どうか。
広島型原爆の5000発分の放射性物質(セシウム137換算)を含む1535体の使用済み燃料がある。建屋が壊れ落ちて放射能が飛び散れば首都圏の人は避難しなければならない、と原子力安全委員会も指摘しています。(小出裕章京大助教)永久にもとの地域に戻れないのではないかという不安にさいなまれながら、避難生活を続けている福島被災地のみなさんの心情に寄り添い、その雇用・生活を保障する道は誰がきりひらくのか。原発ゼロを口にしつつ、遠い先にのばして結局は原発共同体に利益を保障する政党ではあり得ないことは明らかです。
自党の候補者応援のために沖縄を訪れた橋本維新代表代行は11日の街頭演説で米軍普天間基地を「まずは辺野古に移設させてもらいたい」と
話したといいます。維新の会の沖縄一区候補者が選挙チラシに「移設反対」を明記していることに、橋下代行は「反対を唱えるのであれば、維新から出て行ってもらわないといけない」と記者団にかたっと言うのです。自民や民主の県内候補者が「県外・国外」と打ち出してもおとがめなしということからすれば、「スジ」を通したともいえますが、およそ公党としての体をなしていません。
今日のしんぶん赤旗によれば、街頭演説の模様について、「拍手もパラパラ。『辺野古(移設)反対!』と声を上げる人や、『沖縄のことは何もわかっていない』と立ち去る人たちもいます」と書いていました。さもありなん。
軍事ジャーナリスト(そんな分類があるのかどうか知りませんが)の前田哲男さんは、高文研の「フクシマと沖縄」という書籍のなかで、一見全く別の事象に見える「フクシマ」と「普天間・高江」とが「国策による被害者」という共通項で結ばれていると書いています。さらに、次のように述べていることが注目されます。
「3.11震災」がもたらした「原発メルトダウン」と「未曾有の環境破壊」に遭遇してしまったいま、「フクシマ事態」と「普天間・高江問題」の区別はもはや失われた。ふたつの事象は、距離と様相を超えて私たちに問いかける。安全保障とは何か?日本国憲法が保障する『平和のうちに生存する権利』の実質はどこに見いだされるべきか?前田さんは、「フクシマ」「オキナワ」の共通項が、「国策による犠牲者」という点だけではなく、国策によって翻弄された結果「カタカナ表記される地名になってしまった」と指摘しています。これはよく言われることですね。そして、さらには次のように述べています。
沖縄と福島が、ともに”まつろわぬ者たち”の末裔、また”寄る辺なき民”としてのルサンチマン(怨念)と哀切な記憶を共有している点であろう。・・・・語り継がれる飯森山での少年たちの集団自刃と摩文仁の丘での少女たちの集団自決はーー時空を超えてーー見捨てられた者、滅びゆく土地に捧げられた鎮魂歌のように感じられる。「会津戦争」の後、生き残った侍たちが放逐されたのは下北半島・斗南藩。これまた今日の原発集積地帯であるのは偶然なのでしょうか。
沖縄での琉球処分、沖縄戦と米軍統治という歴史をひもとくまでもなく、今日の基地の現状をみれば差別・疎外の実情はあきらかです。そして、もう一つの共通項(これは私が思うのですが)、マスメディアからは疎外され、圧倒的な日本国民の意識にはほとんど上らなくさせられているという点。
この選挙である政党が第一党になるという予測報道こそ、その党が今日の「原発安全神話」と利権まみれの原発共同体を作り出してきた張本人であることを見事に覆い隠し免罪しています。
右翼的な主張(ほとんど職業として)が跋扈するネット上で、私たちはもっともっとネットを通したまっとうな主張をくりひろげ圧倒することがもとめられているのではないのでしょうか。
***************************
ネットラジオのジャンル別の放送局がこの数年で猛烈に増えていますね。びっくりしました。私がBGMがわりにいつも聞いているのはiTunesかSHOUTcastのClassicalばっかり。
私がそれを好んで聴くは、幼い頃からの体内の音を受容する感性・習慣がそうさせているだけで、ロックや演歌、ジャズなどが嫌いだとかというわけではないのです。
中にはクラシックがハイレベルだなどと信じている人がいるのかも知れないけれど、それは「悪しき教養主義」「思いこみ」にすぎず、そんな馬鹿なことはない。小澤征爾さんが言う(「小澤征爾・大江健三郎対談=同じ年に生まれて=」)ように、音は「自然に源をもつ振動であり、倍音の世界」で、たまたま各地の曲作りをする人たちがそれらの音を拾い上げ、アナライズしたものだからです。
妻は大の美空ひばりファンで全集CDをいつも車に入れて運転してしているほど。それも小さい頃からの音楽の受容体のなせるワザですから、私はそれは尊重します。好きか嫌いかではなく、これは理屈抜きの感性の問題です。
あれは何歳くらいのときだったのでしょうか。多分中学1年か2年の頃だったと思います。父母が安物のレコードプレーヤーを購入し、はじめてレコードというものを買いに行ったことがありました。そのとき、私が父に何か買ってきて欲しいシングルがあるかどうか訪ねたのです。レコード屋を覗いたこともなかった頃です。
そのとき父が私にリクエストしたのはベートーベンのソナタ「スプリング」でした。さすがにベートーベンは知ってはいましたが、聞いたこともない名前の曲にびっくりしながらもレコード屋で訪ねて買い求めてきたことがありました。
母にあとから聞いた話では、父は若い頃一人で喫茶店に入り浸りクラシック音楽を聴きまくっていたらしいとのこと。どうもネクラの父ではあったようです。
母も、音楽専攻の小学校教師であったために、日曜日などの日直に私を学校に連れて宿直室に一人で閉じこめ、レコードを何枚も与えては聴いているように言いつけたことがありました。否応なく学校音楽のレコードを聴くしかない。プレーヤーの前で何時間も聴いていた一こまをいまも思い出すときがあります。
ジャズでもタンゴでもロックでもなく、はじめから西洋音楽の環境だったことが私の耳をそれになじませてしまったのでしょう。
「不登校」になった大学の3年時に、ひたすらFMのクラシック番組を聴きまくり曲目と作曲者のリストをつくっていたことも、その耳になにがしかの影響を与えているのは間違いありません。
だから音楽通のようにさほど作曲者や曲について詳しいなんてことはない。ぜんぶ中途半端。でもそれらの音の振動数や音質が鼓膜や頭の神経の受容部分とより強く共鳴することは事実なのです。
生演奏のすごさと感動を初めて知ったのは、高校3年生のときに聴いたベートーベンの熱情ソナタ。演奏家はゲルハルト・プッフェルト(ドイツ国立ベルリン芸術大学教授)でした。高3といえば、私の最も多感で苦しみのさなかにあった時代。恐ろしいほどの響きで私の心にせまってきたのを覚えています。アパッショナータについては、それ以後2度とそのような感動をもっては聴けなかった。
ピアノやオーケストラのすばらしさにはそれ以後も何度か接することはあったものの、私にとっての原体験は子どもの頃に繰り返し聴いた学校音楽であり、父のレコードだったと思います。それがなければ、ベートーベンもモーツアルトもベルリオーズもラフマニノフもただの音だったかもしれません。